「その食費も、もう・・・」
エヴィンはポケットの中から財布を取り出し、その中を覗き込んだ。
もう缶ジュース一本買う金さえも残っておらず、カバンの中には少し
だけのミネラルウォーターと、ペロリーメイトが半分あるのみである。
体を倦怠感が支配し、あんまり動きたくもない。そしてお腹はひっきり
なしにグゥ・グゥという音をあげ続けている。
「僕は、何をすればいいんだろう・・・？」
木々の隙間から見える、よどんだ空を見上げながらエヴィンはその答えの
切れ端さえも掴めずにいた。「闇の神子」としての力を持つ事が明らか
になった今、そしてそんな自分のせいで危ない目にあう人が出てしまった
今、みんなの所に帰る事はできない。しかし、それから何をすればいいの
だろう？いや、それ以前にこのままだと空腹で倒れるんじゃなかろうか、
そんな事を漠然と考え続ける。そしてそんなエヴィンに、声をかけてくる
者がいた。
「エヴィン・・・ハランツ君だね？」
「・・・え・・・？」
突然自分にかけられた声に、エヴィンはビクとしながらその声の方を向く。
するとそこには一人の、五十代後半と思しき男性が立っていた。
男は目の前にいる少年がエヴィンである事が間違いないと分かると、
微笑を浮かべながら、懐に入れていた警察手帳をエヴィンに見せた。
「警察！？」
「ああ。君のお母さんの依頼で、君を保護しに来た。」
「母さんの・・・」
エヴィンの言葉に男はコクリと頷いた。
「それと、君のお母さんから君に届け物を頼まれていたんだ。」
「届け物？」
「ああ、これの事なんだがね・・・」
そう言いながら男は手にしていたカバンから小さな箱を差し出した。
「これは・・・？」
箱を見ながらいぶかしげな声でエヴィンが尋ねる。
「さあ？私も中身は聞いてないからな。ま、開けてみるといいさ。」
「あ、はい・・・」
そう言ってエヴィンが箱を開けると、クッキーが入っていた。外の店で
買った物ではなく、間違いなく母クリスが焼いた物である。クリスは昔
からお菓子作りが好きで、小学生の時の誕生日パーティーのケーキは
必ず母親が焼いてくれた。そしてエヴィンも、母親の作ったそのケーキを
外のどんな物よりも美味しいと思っていた。
「お母さんの手作りかい？」
クッキーを見て警察官が尋ねる。
「はい、間違いなく・・・」
「そっか・・・優しいお母さんじゃないか。君の事をとっても心配していたぞ。」
警察官の言葉にエヴィンは無言で頷く。
「お腹も空いてるんだろう？それを食べたら一緒に山を降りよう。」
警察官は優しい言葉でエヴィンにそう語りかける。だが、その言葉に
対し、エヴィンは強く首を振った。
「ダメなんです・・・僕は・・・僕はまだ帰れない・・・」
「？」
「僕の中には”力”がある・・・僕の大切な人を傷つける、どうしたらいい
のかまるで分からない”力”が・・・」
「ハランツ君！」
エヴィンの言葉に警察官は語気を強め、エヴィンの右手首を強く掴んだ。
「悪いが、こちらも仕事なんだ。どうしてもと言うのなら、腕ずくでも
君を・・・！？」
そう言いかけた所で彼は言葉を失った。いや、彼一人ではない。彼の
指示で森の陰に隠れ、様子を伺っていた彼の部下数名も皆声をなくした。
目の前の少年の背中から半透明状の、青黒い、巨大な「翼」とでも言う
べき形の物が突如としてあらわれたのである。そんな彼らにエヴィンは、
哀しい目をして小さな声で語りかけた。
「これが、制御のできない僕の”力”・・・どうか母さんには、僕の代わりに
謝っておいてください・・・」
エヴィンのその言葉とともに翼が羽ばたき、周囲に突風が巻き起こる。
風と、そしてそれにより巻きあがる砂埃に警官達は全員目を開けている
事ができない。そしてやっと目を開けられるようになった時、エヴィンの
姿は忽然といなくなっていた。
「な・・・なんだったんですか、今のは・・・」
部下の一人が彼に尋ねる。が、彼は静かに首を振る事しかできなかった。
そして間もなく日も暮れ、警察隊はその日のこれ以上の調査は困難と
判断し引き返す。そしてエヴィンは山の中の、やや大きめの洞穴状に
なっている所にその身を潜めた。
「はぁ・・・」
洞穴の中でエヴィンは腰を下ろし、深いため息をつく。そしてそこで
エヴィンは、母の焼いたクッキーの入った箱をその手に握りしめてた
事を思いだし、久々のマトモな食糧に頬をほころばせながら箱の中の
クッキーを一枚取って食べようとしたのだが、そこでエヴィンは一匹の
リスの子供が自分の事をじっと見ている事に気付いた。
「君も、お腹が空いてるのかい？」
足下にいるリスにそう語りかけながらエヴィンは手に持っていた
クッキーを半分割ってその片方を渡すと、リスは嬉しそうにカリ
カリと食べ始める。その様子をエヴィンは微笑ましく見ていたの
だが、直後にリスはコロンとひっくり返ってしまった。
「え？」
唖然とした顔でエヴィンは動かなくなったリスを手に取ってみると、
どうやら眠っているようであった。
「まさか母さん・・・睡眠薬？」
自分の手に握られたもう半分のクッキーを見てエヴィンはつぶやき、
そして思い出した。自分の母親は、時として割と手段を選ばない所が
あるという事を・・・
きっとこれが、自分の息子を確実に連れ帰るためにと考えた事なの
だろう。だがその事に対しエヴィンは母を責める気にはなれない。
ただただ、クリスに対する申し訳の無さが広がるばかりだった。
そして間もなく、雨が降ってきた。かなり大降りの雨である。だが
ここにいる限り雨露は凌げる。そう思った矢先、ノシ・ノシという
鈍い足音とうなり声が自分のいる方へと近づいて来た。
「今度は・・・何？」
その音にエヴィンは反射的に身構え、音の正体を探ろうとする。
だがエヴィンが探るまでもなく、音の正体はすぐに分かった。
熊の親子・・・エヴィンが今晩の宿と決めた場所は、数頭の熊達の
住処だったのである。
「まずい！」
エヴィンはまだ眠りから覚めないリスをポケットに入れると、大雨の
中を一目散に逃げ出した。その後ろを熊の親子のうちの一頭の大熊が
追いかけてくる。ぬかるんでいる地面に何度も足を取られそうになり
ながらも、エヴィンは必死に逃げた。熊が必要以上の追撃をやめて、
とっくに姿が見えなくなっているのに、それに気付かず逃げ続けた。
そして土砂降りの山の中を何キロも走り続けた結果、エヴィンは強い
寒気を全身に感じていた。
「うう・・・」
全身を言いようのない寒気が覆い、額に手をあてるとひどく熱い。
吐き気を催すが、空っぽの胃袋の中からは胃液しか出ない。
「・・・風邪、ひいたかな・・・？」
木陰でエヴィンは力無く呟く。そしてやがて彼の意識は朦朧とした
視界とともに急速に薄れていった・・・
それからどのくらい眠ったのだろう？眠りの中でエヴィンは色々な
夢を見た。小学生や中学生の時の事、ティリアへ引っ越す事が決ま
った時の事、アレンやマーク、リビアの事、レガードの館での戦い、
そして「闇の神子」としての力の発動・・・エヴィンはそこで目を覚ました。
「何だったんだ・・・今の夢は・・・いいや、トイレ行って寝直そ
・・・って、ここは？」
エヴィンはハッとして周囲を見渡した。森の木陰にいる筈の自分が
いるのはベッドの中、しかも一度も見た事のない家の中なのである。
その事にエヴィンは驚き、目眩で定まりきらない視界の中で周囲を
キョロキョロと見回していると目の前の扉が開いた。
「あ！目ぇ覚めたんだ！」
扉を開けた人物は、頭痛のするエヴィンの頭にガンガン響く声で
嬉しそうに言った。それはジーンズに紅白のチェックの服を着た、
パッチリとした深い青の瞳と、栗色の短い髪を持つ、エヴィンと
同年代と思われる女の子だった。
「・・・君は・・・？それに、ここは・・・？」
呆然とした口調でエヴィンがそう言うと、少女はムスッとした顔をした。
「あんたねぇ、人に自己紹介を頼む時は自分が先に名乗ってから、
ってのがスジじゃないの？ましてや死にかけてたアンタをここ
まで運んだ、命の恩人に対しては！」
「え？あ・・・ごめん・・・僕はエヴィン・・・エヴィン・ハランツって
言うんだ・・・君が、ここまで・・・？」
「そーよ、感謝しなさいよね。あ、そうそう、私の名前はエリー！
エリー・ロックフィールド！！」
栗色の髪の少女は、自分の名前を笑顔でエヴィンにそう告げた。
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