その名前で、彼のような容姿と年齢の人物はネオアリサの戸籍簿には載って
いなかった。どうやら偽名だったらしい。一応捜査も行われたが、罪は傷害
罪、大規模な捜査チームを結成する事ができるような捜査ではない。それに
アレン自身「闇の神子」という物について何も情報を掴めていないし、そも
そもそれが本当なのかも分からない。そんな状況で、彼の力（というかコネ）
を使い大規模捜査をする事も下手をしたらイタズラに人々の不安を煽るだけ
だと考えると、それもできない。
だからアレンにとってレガード（仮）の言っていた「闇の神子」という言葉は
喉に引っかかった小魚の骨のような気持ち悪さといやらしさを残していたが、
それは世のほとんどの人にとって何ら関係を持たず、仕事に遊びに、恋に勉強
にとそれぞれの人がそれぞれの、いつもと変わらぬ暮らしを送り続けていた。
そんな、平凡なウィークデーの一日・・・
「よぉエヴィン」
学校の靴箱で靴を履き替えたエヴィンにマークが後ろからポン、と肩を叩き
ながら話しかけた。
「おはようマーク、今日は遅刻じゃないんだね。」
「・・・とうとう、お前にまで言われるようになったか・・・」
エヴィンの悪意のない一言に、マークは頭を抱えた。言われて頭を抱える
くらいならそもそも遅刻しなければいいのだが、どうもそうするつもりは
毛ほども無いらしい。
「そう言えばマーク、レポートやった？」
「へ？レポート？」
エヴィンの一言にマークは呆気にとられ、間の抜けた声で聞き返した。
「うん、先週アソビン先生が出した物理のレポート、たしか今日提出だったよね？」
「そういう事を俺に聞くなよ・・・で、お前はやったのか？」
「うん。」
エヴィンがそう言ってうなずくと、マークはエヴィンに向かって手を合わせ、
頭を下げた。
「頼む！ちょっと貸してくれ！授業中に急いで写すから！！」
かなり慌てた口調でマークは言う。そんなマークにエヴィンも即ＯＫしようと
したのだが、そんな二人に後ろから聞き慣れた声が割って入った。
「ダメよエヴィン、貸したりしちゃあ。」
「じ、ジェシカてめぇ・・・余計な事言うんじゃねぇ！」
「やんない方が悪いんでしょ！」
こうしてまた二人の日課の口げんかが始まる。そんな二人の間で置いてけぼり
状態となったエヴィンは、しばらく二人の様子を眺めていたが、二人の口論が
一瞬止んだ時に「僕は、別に構わないんだけど・・・」とつぶやくように言った。
「あ、エヴィン、言っとくけど貸したらエヴィンも同罪にするからね。
学級委員権限で。」
エヴィンのつぶやきにジェシカはすかさず言い返す。その言葉にエヴィンは少し
考え込んでからマークにペコリと頭を下げた。
「・・・ごめん、マーク。」
「ちょっと待てエヴィン、『ごめん』って何だよ『ごめん』って！
どこをどーつないでも『ごめん』は出て来ないぞ今の文脈から！！」
マークはかなり焦った口調でそう言ったが、次の瞬間には「ちっ」と舌打ちを
してポリポリと右手で頭を数回掻いた。
「・・・ま、別にいいけどよ。レポートの一つや二つが俺の人生に影響
するワケでもないし。」
完全にあきらめモードに入ったマークは投げやり気味にそう言った。どうやら
「それなら明日までに」とかそういう気持ちは微塵も無いらしい。更に言うと
それじゃあ次にこういうのがあった時にはやって来るか、と言われればそれも
またかなり怪しかった。ともあれ朝の下駄箱での騒ぎはこうして終わり、三人
一緒に教室に行く途中の廊下で後ろからエヴィンに話しかける人がいた。
「おはようエヴィン君。」
「あ、おはようございます先輩！！」
後ろから突然リビアに声をかけられたエヴィンは、少し上擦った口調でそう
返事をする。そしてリビアはそれからも何かをエヴィンに言おうとしたが、
彼がクラスメートと一緒にいる事に気を使ってかすぐにスタスタと歩いて
行ってしまった。
「おいエヴィン。」
再び教室に向けて歩き出そうとするエヴィンの制服の首筋をマークが掴んだ。
「な・・・なに？」
「今のがお前が前に言っていた『リビア先輩』なのか？」
「う・・・うん・・・」
「お前にゃケンカの時の借りがあったが、それもそろそろ時効だよなぁ？」
意地悪そうな笑みを満面に浮かべマークは言った。もっともその「約束」
自体エヴィンはかなり前から忘れていたのだが。しかもジェシカも一緒に
なって「へぇ〜、エヴィンってああいう人が好みなんだぁ〜」とマークと
一緒になってからかいにかかる。この二人、いつもケンカばかりしている
くせに、たまに意見が合うと抜群のコンビネーションを見せるからタチが
悪い。ただし、この時はホームルーム開始のチャイムに助けられ、何とか
話をうやむやにする事に成功した。
ちなみに実際エヴィンとリビアはどうなっているのか、と言うとあれから
結局正式に入部し、フルートも安物ながら手に入れ練習に励んでいた。
練習は帰宅後自分の部屋で教本片手に練習したりもしていたが、何より
リビアの指導の効果が大きかった。リビアは素人のエヴィンの事を決して
見下したりバカにしたりはせず、丁寧に、そして辛抱強く教えてくれた。
また、エヴィンが一つ上達した時にはリビアも自分の事のように喜んで
くれる。そしてそうこうしているうちにエヴィンも短い曲なら何とか吹ける
ようになったし、練習ばかりでなく、雑談に花を咲かす時もある。また
部活には他の部員もたまに顔を出したりするのだが、リビアと二人っきり
という日も珍しくはなかった。そんな日々の中で、エヴィンはリビアに対し
淡い恋心を抱くようになっていた。
ただし、そんな自分の気持ちを正面からあらわす事はエヴィンにはできず、
あくまで「仲の良い部活の先輩後輩」という間柄が続いていた。
そんな毎日が続いていたある週末、祖父母を交えた夕食の後、一人自分の
部屋でベッドに寝転び、お気に入りのポップスのＣＤを聴きながら漫画を
読んでいると、部屋の外から電話の鳴る音が聞こえてきた。
「はい、ハランツですが・・・え？ええ、いますよ。ちょっとお待ちください。」
エヴィンの母、クリスはそう言うと電話を子機に切り替え、エヴィンの部屋に
持って行く。そして自分の両親のいる居間に戻って来た時には、やけにニヤ
ニヤとした顔をしていた。
「どうしたんじゃクリスティー？変な顔して」
自分の娘の顔を見て、いぶかしげにアレンがそう尋ねると、クリスは笑いを噛み
殺すのに必死で、それから何とか気持ちを落ち着かせ、ようやく話をしだした。
「いや、今エヴィンに電話があったんだけどね・・・」
「ふむ？」
「女の子だったのよ女の子！」
「ほぅ・・・」
クリスのその言葉にアレンとアリスも思わずニヤリと口元に薄笑いを浮かべた。
「それで、エヴィンに電話渡したらあの子ったら鳩が豆鉄砲喰らったような顔
して真っ赤になって慌てふためいちゃってさぁ、きっと電話の相手の事が好き
なのよ。そんな事、今まで私には一言も言ってなかったけど。あの子ったら、
昔から嘘がつけない体質なのよね〜」
「で？その女の子の名前は？」
野次馬根性丸だしでアリスがクリスに尋ねた。
「えっと、たしか・・・リビアって言ったかしら？結構上品そうな声だったわよ。」
「へぇ、上品そうな声、じゃあ私の若い頃みたいな感じなのかしら？ねえアレン？」
「・・・・・・」
「返事が無いけど・・・」
紅茶の入ったティーカップを口に運んだまま、急に全く動かなくなったアレンを
見ていぶかしげにアリスは言った。
「誰が『上品』じゃ誰が！」
それから約一分、ようやく硬直の解けたアレンはティーカップを持ったまま、苦々
しげな表情でアリスにそうツッコミを入れた。
「そりゃ〜、私に決まってるじゃない。」
「ほう？お前さんの言う『上品』ってのは寝てる人間の顔に落書きして逃げたり、
特大の落とし穴を掘って人を陥れたり、挙げ句の果てにはシャベルを使って人を
生き埋めにしたりするヤツを言うのかい？」
「・・・あなたも随分、執念深いわね〜」
「それだけお前が回数やってるって事だろうが！」
・・・と、まあそんな感じでアレンとアリスが、子供の頃からレベルの全く変わって
いない口ゲンカで盛り上がっているのから話は数分さかのぼりエヴィンの部屋・・・
「リビアからの電話」そう母から言われた時、エヴィンは文字通り「心臓が口から
飛び出しそうになる」ほどにビックリした。リビアの家の電話番号は部員名簿が
渡されているから知っているし、電話をかけようと思った事も何度もある。だが、
適当な用事が思いつかなかったり、受話器のボタンを前に手が震え、緊張したりで
結局一度も電話をした事が無かったのである。
そんなエヴィンに、初めてリビアから電話がかかってきた。その状況にエヴィンは
必要以上に緊張をし、大きく一つ、深呼吸をすると受話器の「保留」を解除した。
「も、もしもし？」
「あ、エヴィン君？今時間大丈夫？」
「は、はい！大丈夫です！」
緊張しまくりな、必要以上に大きな声でエヴィンは答えた。
「ねえエヴィン君、突然で悪いんだけど、明日空いてる？」
「・・・え？」
「あ、明日ね、夜の七時からアバンチーノっていうフルート奏者のコンサートが
あって、今日招待券二枚貰ったんだけど急だったから誰も都合がつかなくって・・・」
「え゛・・・・・・」
「もしもし？エヴィン君？」
「・・・・・・（それってもしかして・・・『デート』って言っても差し支えがないんじゃ・・・）・・・」
そう考えると、エヴィンはさっきまでより更に、自分の顔に血が上るのを感じ、また
心臓の音が直接耳に聞こえてくるくらいに大きくなるのを感じずにはいられなかった。
「もしもし？聞こえてるエヴィン君？」
「え？あ、はい！ご、ごめんなさい！！」
思考の停止したエヴィンの頭にさっきまでより大きめなリビアの声が飛び込んで来て、
ようやくエヴィンの心は現実世界に引き戻された。だが、それでも夢の中にいるような
心地で、それから何をどう言ったのか、どんな話をしたのか、エヴィンの頭には残って
いない。ただ「午後の四時にティリアの駅前、あんまりラフな服装は×」という内容の、
おそらく自分が書いたであろうメモだけが手元に残されていた。
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