（まさか本当に・・・）
ああは言ったものの、ユエリの反応はアーサーにとって、かなり意外だった。彼女の性格
からして、自分が肩を貸すと言っても絶対に拒否するだろうと思っていた。けれど現実は、
そうじゃなかった。二つ返事でアーサーの提案を受け入れている。
（よっぽど早く会いたいんだな・・・自分のお爺さんに。）
そんなことを思いながら、アーサーはユエリの準備ができるのを待った。しかし、ユエリが
なかなか肩に寄りかかってこようとしないのを感じて、アーサーは少し急かす。
「どうした？行かないのか？」
「・・・？もう準備、できてるけど？」
「え？」
ユエリの言葉にアーサーは首を左に動かした。ユエリはとっくにアーサーの肩に、その身
を預けている。
「こっちこそ、いつあなたが動くのか待ってたんだけど・・・頼む身で急かすのも悪いから。」
「・・・そうか、じゃあ行こう。」
アーサーはそう言うと、ユエリと一緒にゆっくりと歩き出した。
（軽いんだな・・・）
病院の廊下を歩きながらアーサーは思った。彼がユエリの体重を感じるとき、それはい
つも彼女が加速をつけ、自分も真っ向からぶつかって行くときの衝撃と一緒だった。だ
けど今アーサーの肩にかかるそれは比べ物にならないと言うより、信じられないほど軽い。
（すごいな）
アーサーは素直にそう思った。それからアーサーは首を少し横に動かし、ユエリの顔を見
た。ふり向くと頬と頬がくっつきそうな距離に、少しドキリとしながら。
大量の血を抜いた後なのでその顔はいつもより少し白く、辛そうだった。しかし、辛い体調
を抑え込むかのように、その上に喜色を重ねている。だが、そんなユエリの喜色は「先に
面会者がいる」という看護婦の一言で腰を折られた。
「面会って、誰が来ているんですか？」
「男の人です。えっとたしか名前は・・・」
アーサーの質問に看護婦は答えた。そして口を動かしながら面会者リストに目を向ける。
「エヴィンさんという人ですね。」
「父さんが？」
「あら・・・お父さんだったんですか。それなら一緒に入っても構いませんが・・・」
しかしそう看護婦がそう言いかけたところで、病室のドアがガチャリと開いた。
「父さん・・・来てたんだ。」
「ああ。」
「いつの間に？」
「二十・・・いや、三十分くらい前だな。」
腕時計を見ながらエヴィンが言う。
「しらせたの？」
アーサーの目を見てユエリが言った。
「ああ。ユエリも寝ちゃったし、帰りが遅くなりそうだったから。」
「そう・・・」
「うん。けど父さん、来たなら来たって・・・」
「悪い。ちょっとディルナさんと、二人で話がしたかったんでな。」
しれっとした顔でエヴィンは言った。その一言にアーサーとユエリはピクリと反応する。
「ディルナ・・・じゃあ、あの人ってやっぱり！？」
「ああ。ディルナ・ロックフィールドだ。会うのは何十年ぶりかだな。さすがに老けていたが、
思ったよりも元気そうだ。」
「元気そう・・・」
「よかったな、ユエリ。」
アーサーはそう言って、ユエリの肩をポンと叩いた。肩を叩かれたユエリの顔が、少し明
るくなる。だがそんな顔もエヴィンと目が合うと、また少し影がさした。エヴィンにこうして会
うのはシェリーと戦った時以来（第一部第六〜八話以来）になる。ユエリはしばらくエヴィ
ンの顔を凝視し、それから視線を下に逸らした。
「久しぶりだね。」
目を背けたユエリにエヴィンが言う。ユエリは小さな声で「…はい…」と答えた。
「最近、元気でやっているのか？アーサーと朝晩稽古してるみたいだけど。」
「大丈夫です・・・」
「この前シェリーからメールが来た。君のことも、気にかけていたぞ。」
「そうですか・・・」
そう言うとユエリは視線をエヴィンの方へ戻す。そしてほんの少しだけ首を動かし会釈した。
「失礼します。」
ユエリはそう言うと、病室に入っていった。そしてアーサーは、病室に入るユエリの背中を
見送ると一言「帰ろう。」とエヴィンに言う。
「いいのか？」
意外そうな顔でエヴィンが言う。
「うん。僕は別に、あの人に何か用があるのでもないし。」
「あの人に勝つために、頑張ってたんじゃないのか？」
「それはそうだけど・・・せっかくの対面なんだから、邪魔しちゃ悪いから。」
アーサーはそう言うと、エヴィンの返事も待たず、一人スタスタと病院の出口に向けて歩き
出した。
その日の夕食は非常に妙な空気が流れている物になった。アーサーは終始、不機嫌そう
な顔でふさぎ込んでいるし、ジニーはジニーでポケーっとした顔で呆けている。
「二人とも、どうかしたの？」
少し心配そうな顔でリビアが言う。
「どうもしてないよ。あ、母さん、おかわりもらえる？」
「おかわりって・・・まだ食べ終わってもいないじゃない。」
「え？」
言われてアーサーは自分のシチュー皿を見た。彼の皿の中の物はまだ、半分以上残って
いる。
「あ、ああ・・・そうだね、うん。」
返事になっていない言葉を返すとアーサーは掻き込むようにシチューを平らげる。
「ごちそうさま。」
リビア達に一言そう言うと、アーサーは部屋に戻って行った。
「・・・・・・」
ドアを閉め、ため息を一つつくと、アーサーはベッドにその身を投げ出した。
「何でだ・・・」
アーサーは自問した。今の彼は、おそろしく機嫌が悪い。なんでここまで不機嫌なのかと、
自分でも驚く。ベッドに横になったまま、机の上に置いてある本に手を伸ばしかけるが、そ
の手もすぐに引っ込めた。それからもアーサーは難しそうな顔をして、しかしその実何を考
えているのでもなく、所在無く時間を過ごす。と、そんな時下の階からリビアがやってきた。
「アーサー。」
手に子機を持ったリビアが、不安そうな顔で話しかける。
「今、マレジア司祭から電話なんだけど・・・」
「電話なんだけど？」
「ユエリさん、家に帰ってないみたいなのよ。何か知らない？」
「！・・・いや・・・」
「本当に？あなた最近、いつもユエリさんと一緒じゃない。」
「まあ、それはそうだけど・・・でも別に、何から何までってワケじゃないし。病院からも、僕
と父さんは先に帰っちゃったし。」
「そう・・・」
アーサーの返事にリビアは肩を落とした。彼女が司祭に「ええ・・・こちらにも連絡は・・・息
子にも確認したのですが」と申し訳なさそうに言っているのが聞こえてくる。
「・・・やっぱり・・・そうなのかな・・・」
アーサーはひどい虚脱感に襲われた。そして再びベッドの上に寝転がると、脳裏をディル
ナの顔とユエリの顔が交互によぎる。
「ディルナ・ロックフィールド・・・ユエリの爺さん・・・・・・ユエリ・・・」
・・・
・・
・
「・・・寝ちゃったか・・・」
それからしばらくして、アーサーは自分が寝ていたことに気づいた。部屋に掛けてある時
計を見ると、どうやら一時間近く眠っていたらしい。アーサーは部屋を出ると、階段を降り
た。
「母さん」
「なに？」
「あれからユエリ・・・何か連絡あった？」
「ううん・・・」
アーサーの言葉にリビアは首を横に振った。
「そういえばアーサー、あなたディルナさんに会ったんですって？」
「え？う、うん・・・父さんから聞いたの？」
「ええ。」
「二人とも、知り合いなの？あの人と・・・」
「ええ。私とエヴィンが、高校生の時からね。エリーさんが結婚するまでは、家にいたから。
それから何をしてたのかは、全然知らないけど。」
「そうなんだ・・・なんで、出て行っちゃったのかな・・・」
「さあ・・・なんででしょうね・・・昔から、何を考えているのか分からないところがある人だっ
たから・・・」
寂しげな顔でリビアは言った。そう言えばディルナがいなくなった翌日、エリーは涙声で自
分とエヴィンの家に電話をかけてきた、そんなことをふと思い出す。そしてそれから今日ま
で二十年、彼女の家にディルナが来たという連絡がなかったということも。
「母さん？」
「？何？」
アーサーの声でリビアは我に返った。
「ちょっと、散歩してくる。」
「あまり、遅くならないようにね。」
「わかってる。あ、鍵は持ってるから。」
リビアにそう言うと、アーサーは夜の街へと出かけて行った。
出かけはしたものの、当然行き先なんてありはしない。コンビニにもどこにも入らず、土曜
夜の人出でごった返す駅前の繁華街を抜ける。初夏が近いティリアのそよ風が心地よいが、
今のアーサーには、それをしんみりと味わう心の余裕は無い。やがて小さな公園の前につ
くと、アーサーは初めてそこにあるベンチに腰を下ろした。
「ユエリ・・・」
つぶやいてアーサーはため息をついた。
「もう、会えないのか・・・？」
脳裏に浮かんだその考えを、アーサーはすぐに否定しようとした。だが今のアーサーにそれ
を否定することができない。
「あの人の正体が分からなかったから、一緒に行こうとするユエリを止められた・・・けど、そ
れが実のお爺さんだったら、それでユエリに一緒に来ないかとか言っていたら・・・それを
止める権利や筋合いが、僕にはあるのか？いや、それより僕は・・・僕はなんで、ここまで
不機嫌になってるんだ？二週間前と言い、今回と言い・・・」
それからアーサーはまた考えた。しかし考えがまとまる筈もない。やがて彼はイラついた気持
ちのままベンチを立つと歩き出す。その足は、彼が全く意識しないのに、ユエリと一緒に特訓
をしていた、あの河川敷へと向かっていた。
「ここで特訓してたんだよな・・・朝早く、それから日が暮れるまで・・・」
今日の昼間、時間にすればほんの七・八時間前もそうしていた場所なのに、今のアーサーに
はこの場所が、ひどく懐かしい、遠い昔の場所のように感じられた。それと同時に、いつもは
来ていない時間帯なので、まるで夜の校舎に来たかのような不思議な感覚も彼に与える。軽
く見渡したところ、人影は見えない。
「もうここに来ることもないんだろうな・・・・・・？？？」
そう言いかけたところで、アーサーの耳に音が入ってきた。彼がいつも聞きなれている人間の
声、いや『声』と言うよりも、すすり泣きと言った方がいいかもしれない。
「空耳？」
アーサーは辺りを見回した。とりあえず、彼の周りには誰もいない。音も小さな音だ。本来、相
手が近くにいなければ聞こえる筈がない。
「けど・・・けど今のは・・・」
次の瞬間、アーサーの身体がゆらりと動く。そしてそのまま殆ど本能的に河川敷を駆け下りて
いた。勢いがつきすぎて転びそうな足取りで。川に落ちそうになるのを直前で踏みとどまり、橋
の下へと駆けつける。そこで彼は、うずくまっている人影を見つけた。
「・・・ユエリ・・・？」
「・・・・・・アーサー？」
そこにいたのは紛れも無いユエリだった。橋の下に体育座りで、膝の間に顔をうずめていた。
目が泣き腫らして真っ赤になっているのが、暗がりでも分かる。
「どうしたんだよ、こんな所で・・・」
「そっちこそ・・・何してるのよ、こんな所で・・・」
座ったままの姿勢でアーサーを見上げながら、泣きそうになるのを必死に堪えてゆっくりと、
絞り出すような言葉でユエリは言った。そんなユエリにアーサーは一言「散歩だよ。」と返す。
「夜風が気持ちよかったからね。なんとなく歩いてたら、ここに来てた。しみついちゃってるの
かな、ここに来るのが。」
苦笑いしてそう言うとアーサーはユエリの隣に腰を下ろした。季節が季節なので、まだ蚊の
心配は無い。
「爺さんと・・・一緒じゃなかったのか？」
「・・・・・・」
また何か言うと泣きそうになるのだろう。ユエリは歯を食いしばって首を横に振った。やがて
何とか呼吸を整えると「あんな・・・あんな人・・・」と言いかけるが、そこでまた、涙を堪えるた
めに口をふさいでしまう。
「分かったよ・・・何があったのか、今ので大体想像がついた。・・・大体だけどね。」
「・・・・・・」
「けどさ、司祭には連絡入れた方がいいと思うが。心配して、ウチにも電話かけてきたぞ？」
「！そう・・・でも・・・」
「でも？」
「今の私は・・・」
「今のユエリは？」
「司祭に会わせる顔が無い・・・」
「なんで・・・」
アーサーが聞くと、ユエリはゆっくりと話し出した。
「あの人が誰なのか分かって病室に行く時、思っちゃったの・・・、これで私もこっちで、本当の
家族ができる、って・・・あんなに・・・あんなに良い人を・・・そんな私が、どんな顔して・・・」
「ユエリ・・・」
アーサーはしばらく考え込んだ。一度はユエリに向けていた視線を、真正面に戻して。ユエリ
もまた、顔をうずめたまま、頭は正面を向いている。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しばらく沈黙の時間が流れた。そして、やがてアーサーはつぶやいた「ムカつくな。」と。
「え・・・？」
ユエリは少しびっくりした顔でアーサーのことを見る。
「アーサー、今、なんて・・・？」
「ムカつくって言ったんだ。全部にね。」
「全部？」
「ああ。いくら肉親だからって、何やってるのか分からないポッと出の爺さんにホイホイついて
行こうとするユエリに。」
「な・・・」
「そしてそんな孫を冷たく突き放したディルナに。」
「・・・・・・」
「そして何より・・・」
「何より・・・？」
「今のこの状況に、ホッとしている自分にだ。」
「ほっ・・・と？」
最後の言葉にユエリの目が泳いだ。
「ああ、ホッとしてるんだ。ユエリがどこかに行かずに済んだ事にね。・・・我ながら嫌になるよ、
自分の卑しさが。」
真正面を向いたまま、苦々しそうな顔でアーサーは言った。そして言い終わると今度は、クク
クと自嘲的に笑い出す。
「・・・ようやく分かったよ、なんでさっきまでの自分が、ああも不機嫌だったのか・・・前にユエリ
と勝負したとき、なんでいつもより頑張れたのか・・・」
「アー・・・サー？」
明後日の方向を向いて独白を続けるアーサーにユエリは恐る恐る声をかける。するとアーサ
ーはゆっくりと、その視線をユエリに向けた。
「僕は・・・ユエリのことが好きだ。」
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