深遠の探求者Ｓ級幹部の一人『ダブルフェイス』、シェリーが初めて戦った、強大な力と明
確な敵意を併せ持った相手、その前にシェリーは、手も足も出なかった。
その鎖を切ったら殺す
〜ダブルフェイス〜
鎖でできた手錠の恐怖を無制限に増幅させる。薄暗い牢屋の中でわずかな物音に震え
ること、はるか遠くの足音に怯えること、そして声が外に漏れていないかという恐怖に包
まれながらすすり泣くことだけが、今のシェリーにできる全てだった。
それとほぼ同じ頃、惑星ネオアリサ、夜明けの光がうっすらと窓に差し込む中、アルケミ
ストは自室に備え付けられたシャワー室で朝のシャワーを浴びていた。新しいアイテムの
研究で昨日はほとんど徹夜、しかもダブルフェイスの言い残していた言葉が気になって、
ほとんど眠れていない。壁に固定されたシャワーノズルから、眠気覚ましにと少し強めの
勢いで暖かいお湯に全身を打たせる。やがて彼はノズルを締めると白いバスローブを身
にまとい、フェイスタオルで頭を拭きながら浴室を出た。そしてホテルによくあるような小
さな冷蔵庫を開け、炭酸水の瓶を手にしたところで、ビジフォンのベルが鳴った。
「……！」
瓶をそばに置くと飛びつくような勢いでアルケミストはビジフォンへと向かった。通信の発
信元はネオパルマの教団本部、それを見て彼の瞳が鋭さを増し、胸がドクンと鼓動する。
（まさか！）
アルケミストはすぐに受話器を取ろうとした。だがそこで彼は一呼吸置き、ビジフォンのカ
メラに蓋をする。そして
「こちらアルケミスト」
の言葉とともに受話器を取った。
「いよぉう、こちら、ダブルフェイスだけどさあ〜」
「……」
受話器の向こうから聞こえてくる明るく、かつ人を馬鹿にしきった口調にアルケミストは不
安が現実になりつつあるのを感じた。目つきが少し悪くなり、相手の次の言葉を見守る。
「ど〜したんだぁいアルちゃ〜ん？画像が受信できないんだけどぉ。その上だんまりじゃ、
不安になっちゃうなぁ〜」
「深い理由はない。今こっちはシャワーを浴びていた。ボイスからの通信であった場合、
バスローブを着ている今の恰好では失礼にあたると思い、あえて遮断しただけだ。そ
れより…今、僕のことを何と言った？」
「『アル』って言ったんだけど？キミの称号、『アルケミスト』が長ったらしいからさあ」
「ふざけるな！」
あらん限りの声でアルケミストは受話器に向かって怒鳴りつけた。
「長いのはキサマの称号の方が長いだろう！それより第一、誇りあるＳ級一人一人に与
えられた称号を略して呼ぶなどということは！」
「許されないってか？」
「聞くまでもないっ！」
「へえ…そうかいそうかい」
激昂したアルケミストの声を聞くと、ビジフォンの向こう側でダブルフェイスはクックックと笑
いだした。聞く相手全てを不快にさせてくれそうな笑い声にアルケミストは歯をギリと軋ませ、
眉が少し上に釣りあがる。そして次の怒声を発しようとした瞬間、また、ダブルフェイスの声
が受話器の向こう側から聞こえてきた。
「そう呼んでいいのは、アルケミスト様憧れの、年上のお姫様だけだってことなんだな」
「！！！！！」
アルケミストの顔が一気に強張り、顔が怒りで赤く染まった。風呂上りの恰好云々なんか
より、よっぽど相手に見られたくない表情だが、今の彼にそれを気にする余裕はない。だ
がダブルフェイスは、今相手がどういう顔をしているのか手に取るように分かっていた。だ
から彼は、相手の感情をもっと逆撫でしようと喋り続ける。
「いやあ現物見ると、写真よりずっといいねえ。ましてや怯えきった表情なんてもう最高」
「…怯え…きっただと？」
「そおう。ボクに二度も叩きのめされてさあ、第三ラウンドはじめようとしたらガタガタ震えて
涙目で、両腕で自分の身体抱えるようにうずくまっちゃったの。それで、ボクに言うんだよ。
“もう…やめて…”とかって」
「…………」
「今は教団の地下牢で震えてるよ。けど、叩きのめして放り込んだ以外は何もしてないから
安心しな。これでもボクは、紳士なんだから。けどよ…」
そこでまた、ダブルフェイスの口調が変わった。
「この俺がこれから先も『紳士』でいられるかどうかは、キサマの行動次第だぜ？バルド…
ま、せいぜいそっちの仕事に精出しながら、俺の連絡待つんだな」
高圧的な口調でそう言い残すと、ダブルフェイスは通信を切断した。
「…………」
通信が切れてからも、しばらくの間アルケミストは受話器から手を離せずにいた。受話器
の向こうではツーツーツーという音が何度もし、やがて受話器がきちんとセットされていな
いことを告げる警告音が鳴り出す。そこまで経ってから彼はようやく受話器を元の位置へ
と戻し、革張りの椅子にドサと腰を下ろした。
「だから…だから言ったんだ…教団に入れって…それを…」
視線は空を泳がせながらそう言うと、アルケミストの呼吸が少し荒くなった。そして無意識
のうちに拳を握る。爪が肉に食い込むくらいの力で握り締めているのだが、本人はその
痛みにまるで気づかない。やがて彼の脳裏をもう一度、ダブルフェイスとの会話がよぎる。
「…なんでだ…なんで、突っぱねられなかった…」
言いながら彼の瞳に、悔し涙が滲んだ。なんで、ああも言われるままだったのか、なんで
「そんなの知るか、好きにしろ」
の一言が言えなかったのか、あそこで黙り込んだら、教団内での自分の立場は悪くしか
ならない、それは十分すぎるほど分かっていたのに、さっき口を開いた瞬間、喉元まで
来ていたその言葉を、吐き出すことができなかった。考えれば考えるほど、頭がこんがら
がる。やがてアルケミストは、頭の中が真っ白になって叫んでいた。
「うぉおおおおっ！！！」
ありったけの感情を爆発させた、アルケミストの叫び声、その声は、廊下まで響いた。近
くを歩いていた教団の人間が慌てて駆け寄り、ドアをノックする。
「アルケミスト様！アルケミスト様っ！！」
「なんだ」
ドアの向こうから聞こえてくる慌てた声に対し、震える声を必死で押し殺し、極力平静を装
った声でアルケミストは答えた。
「今、叫び声のようなものが聞こえましたが、大丈夫ですか！？」
「大丈夫だ…いや、そもそも僕は、叫んでなんかいない。お前の気のせいだろう」
「は…いえ、でもしかし…」
「何でもないと言っている！」
「失礼いたしました！」
アルケミストが怒鳴ると、ドアの向こうの声は駆け足とともに去って行く。その足音を聞きな
がら、アルケミストは横にあった壁をドンと叩いた。
「ご迷惑をおかけしました」
数分後、部屋に入ってきたグエンはそう言ってアルケミストに深々と頭を下げた。
「珍しいじゃないか。君が彼女を置いてけぼりにするなんて」
グエンを立たせたまま、自分は椅子に座り足を組んだ状態でアルケミストは言った。ブ
ラウニーは相変らずソファに座っている。両手を膝に置いたまま頭だけグエンの方へと
向け、幸せそうに微笑んでいた。
「ねえグエン…この子、やっぱり変わったよ…」
「そうですか」
ブラウニーがグエンに見せた微笑み、それと同じような笑みを、グエンはブラウニーに
返した。ブラウニーとグエンはそのまま、互いに微笑みあう。そんな二人に対しアルケ
ミストは軽く咳払いをし、グエンの注意を再び自分へと向けさせた。
「申し訳ございません。キースから、急に呼び出しを受けたもので」
「キース・ドーシュから？」
「ええ」
アルケミストの確認にグエンはそう言って頷いた。
「なんでも、急にネオアリサへ来る用事ができた、ということでした。理由は人材発掘だ
とか…」
「人材発掘…」
グエンの言葉にアルケミストは顎に手を当てて考えた。
「何か、不都合でもおありですか？」
「いや、ただ、あの男のいうことだ。どこまで信用していいのかは分からない」
「そうですか？」
「ああ、僕に言わせれば４人のＡ級の中で、彼が一番、信用できない。」
「……」
アルケミストの言葉にグエンは黙り込んだ。深遠の探求者Ａ級、それは『Ｂの上』と言う
よりも『Ｓの直下』と言うべき者達だった。その登用は完全にＳ級各自の裁量に委ねら
れる。今、教団内でＡ級と呼ばれている者はブラウニーつきのグエン、トライデントつき
のシーレン、ボイスつきのキース、そしてバードつきのメイの四人だけ、階級が下なのに、
上役よりも人数が少ないという、奇妙な逆転現象が起きているのが、Ａ級と呼ばれる者
達だった。
「…いずれにせよ…」
アルケミストの言葉を肯定も否定もせず、グエンはそう言ってまた話し始めた。
「ここからが本題なのですが、今、キースがこちらに来るとＳ級二人、Ａ級二人がネオア
リサにいることになります。この大切な時期にそれは望ましくないといボイス様は考え
られておりまして…」
「つまり、キースが来るから僕に戻れ、と」
「はい…」
自分の言葉を遮ってのその一言に、グエンは申し訳なさそうにもう一度頭を下げた。
「これはまだ、ボイス様にも話していないのですが、ネオアリサの空気はナターシャの
体にも良いようなのです。それにシャトルでの移動は計算していたよりもはるかに、
彼女にとって負担になっていたようでした。私自身としては…このまま、ネオアリサ
に留まっていたい、そう思っています」
「…そうか」
グエンの言葉を聞きながら、アルケミストはニヤリと笑った。
「構わないよ。君らと違って、ここの田舎臭い空気は僕の性に合わないんでね。正直、
一秒でもはやく、ここから離れたいくらいなんだ。ブラウニーのことも、帰ったらボイ
スにそれとなくかけあってみるよ」
腰の辺りで両手を広げ、シニカルな笑みを浮かべてアルケミストは言う。グエンはそ
んなアルケミストに対し何回も礼を言った。
「ありがとうございます。本当に…本当に助かります」
「だから、話はするけど決めるのはボイスだからね？それを忘れちゃ困るんだけど」
「はい…」
クスクスと笑いながらそういうアルケミストの言葉に、グエンはもう一度頭を下げた。
そんな二人のやり取りを見て、ブラウニーもアルケミストへ視線を向ける。だがその
表情は、さっきまでの幸せそうな微笑とは打って変わり、非常に不安げなものになっ
ていた。
「アルケ…ミスト…」
「…なんですか？」
急にブラウニーの表情が変わったのを少し奇妙に思いながらアルケミストは言った。
「いつ…ネオパルマに…？」
「チケットさえあれば、今晩には出ようと思っています。混む時期でもないので、まず
席はあると思いますが」
「そう…」
アルケミストの言葉にブラウニーは力なく頷き、そして今度はグエンの顔を見た。
「グエン…」
「なんです？」
「やっぱり、私達が帰ろうよ…」
「「え？？」」
アルケミストとグエンは異口同音にそう言うとブラウニーの顔を見た。
「なんのつもりですか？ブラウニー」
「どういうつもりですか、ナターシャ！」
二人に同時に同じことを言われ、ブラウニーは少し戸惑った表情を見せた。顔色は、
さっきまでよりも明らかに悪い。グエンは不安になって彼女の心拍数計を確認したが、
こんな真っ青になるような心拍数でもなかった。グエンもアルケミストも、彼女が次に
何を言い出すのかと固唾を呑んで見守る。そしてしばらくの沈黙の後、ブラウニーは
また口を開いた。
「…今あなたが…ネオパルマに帰るのは危険…そんな気が、今、急に…」
「…フッ…」
ゆっくりと、絞り出すような言葉遣いでブラウニーは言った。だがアルケミストは、そ
んな相手の言葉を一笑に付する。
「あなたに心配されるほど、僕も落ちぶれちゃいませんよ。それよりそろそろ出て行
ってもらえませんか？朝食も完全に、冷めちゃいましたし」
「でもアルケ…」
「僕にもネオパルマで、やらなきゃいけないことがあるんです」
少しにらみつけるような視線と強い口調でそう言うと、アルケミストは半ば強引に二
人を部屋から出した。
（僕に危険が…か。たしかに、案外あたってるかもしれないな）
二人を追い出した後、再び一人きりになった部屋でそう言うと、アルケミストは両手
を観音開きの白い窓にかけた。窓を開き、朝の新鮮な空気をゆっくりと肺に満たす。
空は雲ひとつない真っ青の晴天で気温は五月にしては少し低め、風はやや強く、顔
に吹きつけ髪をなびかせる冷たい空気が何とも言えず心地よい。だが吸った息を吐
き出した彼の口から漏れるのは、そんな朝の天気には似つかわしくない、暗い笑い
声だった。
「ダブルフェイス…いや、チャーリー・ハンツマン…知っているかい？世界には、こん
な言葉があるってことを…」
窓から手を離すと、アルケミストはゆらりと部屋の真ん中に立った。そしてゆっくりと
右腕を正面に突き出し、肘から横に曲げる。
「フィノ！」
彼がそう呼ぶと、窓から一羽のブルージェイが滑空して入り込んできた。鳥は音も
なく主人の腕に停まると首をもたげる。アルケミストがその顎をなでると、フィノは
気持ち良さそうに目を閉じた。そんなフィノの顔を見て、アルケミストはニヤリと笑
い今度はフィノの頭をさする。と、フィノの姿は忽然と彼の前から消え失せた。だが
アルケミストが指をパチンと鳴らすと、フィノは再びその姿を現す。
「『侮辱する』という行為に対しては、殺人も許される、って言葉をさ…フフ、知らな
いだろうなぁ…行くよフィノ、ネオパルマに」
何事もなかったかのように自らの腕の上で毛繕いをするフィノにそう言うと、アルケ
ミストは、自身の荷物を整理しはじめた。
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