数分後、アルケミストとゴーツは森のより奥深くまで来ていた。人工の明かりは全く
届かず、音も風の音や虫、動物の鳴き声しかしない。
「悪いな、つきあわせて」
「そう思うのなら手短に頼むよ。こっちも暇じゃないからね」
「分かった。んじゃ聞くが、俺と組まないか？無論、今だけの話だが」
「…は？」
ゴーツの言葉に、アルケミストは眉をしかめ、ポカンと口を開けた。
「大方、お前も同じ目的で来たんだろう。だがそれは、教団から見りゃ裏切りだ」
「…………」
「けどここで俺と手を組めばお互いにリスクを減らせる。お前は実行犯として顔バ
レする危険は無くなるし、俺も身動きが取りやすくなる、違うか？」
早口で、ややまくし立てるようにゴーツは言った。だが彼が話し終えたのを確認
すると、アルケミストはクククと笑い出す。
「ゴーツ・ドーシュ…キミは、バカか？」
「…なんだと？」
「失礼。ただ、そうとしか思えないんでね」
さすがにムッとした顔のゴーツに対し蔑みきった笑い声とともにそう言うと、アルケ
ミストは腰の辺りで両手を広げた。“やれやれ”と言わんばかりの表情で。
「教団の幹部が本部に戻るのが、裏切りになるのかい？」
「…ならねえな」
「だろ？キミが何をしたくてここに来たのかは知らないけどさ、そして教団に敵対
し、本部に潜入しようとしているキミを見逃す理由も…僕にはない！」
その言葉を合図に、アルケミストの腕からフィノが飛び立った。腕を蹴り、空を舞
い、弾丸のようなスピードでゴーツを襲う。だがそんなフィノの一撃をかわすと、ゴ
ーツはアルケミストの懐へ飛び込んでいた。
「交渉決裂だな！」
「くっ！」
懐に飛び込んだゴーツは足を開き、腰を低く落とし、右腕を後ろに引く。対するア
ルケミストは咄嗟に両腕を顔の前で十字に組んだ。
（素人が！）
相手の動きを見て、ゴーツの口元が思わず緩んだ。顔は隠しているが腹部は完全
にがら空きで、打ってくださいと言わんばかりの隙だらけ、そして距離はゼロ、万に
一つも、ここからのパンチを外すことなんてあり得ない。
「歯ぁ食い縛れ！！アルッ！！」
引き絞った拳を、ゴーツは全力で突き上げた。渾身のボディアッパー、目をつぶっ
ていても当てられるその一撃はアルケミストのみぞおちを捉え、彼の身体を少しだ
け浮き上がらせる。だが殴ったゴーツの瞳は驚きで見開かれ、殴られたアルケミス
トの口元はにやけていた。
「ストリング！」
アルケミストの左腕、袖口から出た細い糸がゴーツの首に絡みつこうと飛び出した。
ゴーツは反射的にその動きを見切り、左腕でそれを掴む。だが糸は、そんなゴーツ
の左腕を一気に締め上げた。細い糸が食い込みゴーツの左腕はハムのようになる。
残る右腕でその糸を引きちぎったので重傷こそ免れたが、腕のあちこちから鮮血が
にじみ出ていた。
（くそ、なんで…！）
「錬金術師だからね」
腕を押さえるゴーツに、アルケミストは得意げな顔でそう言った。
（今の感触…メチャクチャ硬かったぞ…）
ゴーツは彼が殴った服を見る。ブレザーの殴られた部分だけ無数の六角形を集め
た魚鱗のような形になって硬質化していた。そして硬質化していたその服は、やがて
元の状態へと戻った。
「伊達や酔狂でこの格好していると思ったかい？」
言いながらアルケミストはブレザーの襟元を軽く引っ張ってみせた。
「この服は衝撃に対して瞬時に硬化するアイアンスキン、迫撃砲くらいまでなら余裕
で耐えられるんだ。無論、シャツとズボンもね」
「それでさっき、顔だけかばってってワケか…」
「そうゆうこと。苦労したんだよ、この防御力と最高級のウールやコットンに匹敵する
軽さと着心地、肌触りを両立させるのは」
「…つまり、同じ防御力でももっとダサい恰好ならずっと簡単に作れたと」
「半分以下の手間と、四分の一以下の予算でね」
「伊達と酔狂、入りまくりじゃねえか」
「いや、必要事項だね。僕にとっては」
そう言うとアルケミストはまた、戦闘態勢を取った。
「続けるよ？」
「ああ…と、言いたいところだが、今日は別にお前とケンカしに来たワケじぇねえ」
「そういやそうだったね。僕も別に、今日あなたを片付ける必要はないし」
戦意を完全に消したゴーツに対し、アルケミストもそう言って構えを解いた。そんな
彼の肩に、フィノがゆっくりと着地する。フィノは相変わらずゴーツのことを睨みつけ
るような表情で見ており、その視線を一瞬たりとも逸らそうとしない。アルケミストは、
そんなフィノの顎を指先で軽く撫でた。
「言ってくれるじぇねえか、アル…」
「…その呼び方は、やめてほしいな。あと…」
アルケミストはそこで一度自分の言葉を止め、コホンと咳払いをした。
「本気出しなよ。そもそも教団相手に、この僕相手に、丸腰なんてナメすぎだ」
「丸腰だからナメてるってのは随分だな。生憎、俺にはこの拳が…」
「嘘をつくな！ゴーツ・ドーシュ！！！」
怒鳴り声をあげた瞬間、アルケミストの姿はゴーツの前から消えた。気配さえも全
く感じさせない、完全な消滅。周囲を見渡しても姿は見えず、五感のセンサーを極
限まで集中させても何も感じない。
（どこだ…どこに消えた！？）
ゴーツの顔に一筋の冷や汗が流れる。だが彼が首を左右に振っていると、姿の見
えない何者かが彼の頬をグーで殴った。腰の入っていない、力の使い方がまるで
分かっていない素人のパンチ、姿が見えなくてもそれは分かる。だがなぜか、そん
な拳が異常なまでに痛い、心に染みとおるような痛みを、ゴーツに与えた。そして彼
が呆然と我を忘れかけたそのとき、アルケミストは彼の目の前に現れた。呼吸を荒
くし、強い憎しみを瞳にたたえて。
「そんな風だから、お前はあの人を危険に晒したんだ！」
「っ…！」
そう叫ぶアルケミストの声は、今にも泣き出しそうなものだった。その声と目つき
で、ゴーツはなんでさっきの拳が、あんなにも痛かったのかを理解する。ジンジン
と痛む頬に手を当て、呆然と立ち尽くすことしかできない。ゴーツが立ち尽くして
いる間に冷静さを取り戻すと、アルケミストはゴーツにもう一言付け足した。
「ゴーツ･ドーシュ、君は、女性を何度も不幸にする人みたいだね」
「！！！」
その一言で、ゴーツの顔色が蒼白から真紅に変わった。
「貴様…どこまで知っている！？」
「さあね、けど僕もＳ級なんだ。通り一遍のことくらいは知っているよ。じゃあ、また。
次は、手加減しないから」
そう言い残すと、アルケミストはゴーツに背を向けて歩き出す。ゴーツはそんなアル
ケミストの後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。
「…………」
それからしばらくの時間が経過した。ゴーツは拳をあまりに強く握ったため、爪が
食い込み血が滲み出ている。
「クソガキが…」
つぶやくような声でそう言うと、ゴーツはそばにあった自身の腿ほどの太さのある
枯れ木に正拳突きを叩き込んだ。乾いた枯れ木はミシミシと音を立て、その場で
折れて倒れる。倒れかける枯れ木を蹴り飛ばすと、今度はそれはきれいに割れた。
そして刃物で斬ったような切り口の枯れ木を見て、ゴーツは深く息を吸った。冷たい
空気が肺の中を満たすと体中の細胞が目を覚ましていくような感覚に襲われる。
「…行くか…」
自分でも驚くほど静かな声でそう呟くと、ゴーツは教団本部へと走って行った。
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「いや〜はっはっは」
教団本部の中ではダブルフェイスが個室で何者かと電話で話をしていた。顔は満
面の笑みで椅子にふんぞり返り、あまり長くない両足はローズウッドで作られた豪
奢な事務机の上に投げ出し、好物のドーナツを頬張っている。
「大丈夫ですよお、たった五人のお友達に紹介をすればいいだけなんですからあ。
ええ、それだけでもう副収入がガッツリとお。あなた私の大切な友達だから、いの
一番に教えてるんですよお？」
ケタケタと笑いながらそう言って、ダブルフェイスは電話の男に投資話を勧めてい
た。しかし話の内容に胡散臭いものを感じたのか、相手は容易にダブルフェイスの
誘いに首を縦に振らない。それでもダブルフェイスは笑顔と明るい声で電話の相手
と話し続けた。
「う〜ん、やっぱり電話だとこれの良さが伝わりにくいんですかねえ？じゃあ今度私
の方から説明に伺いますよお。あ、でもセンセ、明日は朝から夕方六時まで役員
会議でその後は居酒屋『ギュナ』に予約を入れられていて遅くなるでしょう？それ
ならまずは、センセの可愛い可愛い高二の娘さんに資料だけでも。ええ、たしかお
嬢さん、明日はテニス部で帰りは六時、五時半頃には人通りの少ないビクトリア
通りを通られる筈ですからそのときにでも……え？それには及ばない？それは
それは…では申し込み書類を送りますので、くれぐれも間違えやすっぽかしのな
いようにお願いしますよお、以上、おはようからおやすみまで、暮らしを見つめる
ハッピーマンでしたあ」
ハッピーマンとはダブルフェイスの対外的な通称である。電話での『商談』を上首
尾で終えると彼はウェットティッシュを一枚抜き取り、ドーナツの油でベトベトになっ
た手と受話器を拭いた。
拭き終わると彼はもう一度、地下牢の監視カメラに目をやった。捕らえてから半日
以上経った今も、シェリーは牢の隅でうずくまり震えている。食事も与えていない
から、空腹であろうことも容易に想像がつく。
「そろそろ差し入れでもしてやろうかねえ、犬も食わねえような残飯とかさあ！」
心の底まで腐った笑顔でそう言うと、ダブルフェイスは受話器を取り、厨房につなが
る内線ボタンを押す。だがそれがつながるよりも早く、下っ端の一人が彼の部屋へ
飛び込んできた。
「だ、ダブルフェイス様！ダブルフェイス様っ！！」
「なんだあ？」
ものすごく不機嫌そうな顔で教団員をにらみつけながら、彼は受話器を戻した。
「し、侵入者です！侵入者が！！」
「…人数は？」
「か、確認されている限り、一人で…でも、暴風のような勢いで誰も歯が立たず…」
ゼエゼエと息を切らしながら、教団員の男は報告を続けた。だが、そんな彼の背後
から一筋の影が差す。
「それでテメエは、尻尾まいて逃げ出してきたってワケか」
後ろから差した影は、怒りを押し殺した声でそう言った。その言葉に教団員の男は
表情を凍りつかせる。そしてその凍りついた表情のまま、背中から刃を突き立てら
れ絶命していた。
「人数が増えても、屑ばっかり増えやがる」
突き立てた刃を鞘に収め、男は言った。そして死体に一瞥もすることなく、ツカツカ
と足音を立ててダブルフェイスの前へとやってくるとローズウッドの机の上にドカと
腰を下ろす。そして懐からウィスキーの詰まった錫製のスキットルを取り出すと、ラ
ッパ飲みにグイとあおった。
「そう思わんか？ダブルフェイス」
スキットルを机に置いて男は言った。男の呼び名は『バード』、Ｓ級幹部の一人で、
刀を持たせたら教団内で彼の右に出る者はいない。そんな男を、ダブルフェイス
は睨むような視線で見た。
「何しにきた…バード…」
「二つばかり、言っておこうと思ってな」
苦虫をつぶしたような顔のダブルフェイスを相手に、スキットルの酒をあおりながら
バードは言った。
「何をだ？」
「一つは、今死んだヤツが言っていた侵入者、コイツは俺が相手をする」
「ご自由にどうぞお」
全く関心のなさそうな口調でそう言うと、ダブルフェイスは追い払うような仕草で手
を振った。だがバードは席を立とうとはしない。
「言いたいことは二つだと言った筈だが」
「ん？ああ、そうだったねえ、なんだいもう一つは？」
「ハランツの小娘のことだ。さっさと確保しないと逃げられるぞ」
「フン…」
バードの言葉を鼻で笑うと、ダブルフェイスはドーナツを半分に割り、口に運んだ。
そしてもう半分をバードに勧めるが、バードはそれを拒否する。もっともダブルフェ
イスも、相手が拒否することを分かりきって勧めていたのだが。
「あの子はもう心が完全に折れてるからねえ。逃げられやしないさあ。たとえ牢の
鍵が開いて、見渡す限り一人の見張りもいなかったとしてもねえ」
「一人ならな…だがこのタイミング、侵入者の目的は間違いなくヤツだ」
「…これはこれは…」
バードの言葉に、ダブルフェイスは下卑た笑いで彼のことを見た。
「Ｓ級の中でも古参のバード様ともあろう方が、たった一人の侵入者を抑えきる自
信がないということですかあ？」
「…………」
ダブルフェイスのからかいに対し、バードは左手で酒をあおったまま、右手で刀の
鍔をチンと鳴らした。その音でダブルフェイスは額から一筋の脂汗を流し、体を椅
子ごと少し、後ろに逸らさせる。
「侵入者は一人とは限らんということだ」
バードはそう言うと腰を上げ、ダブルフェイスの居室を出ようとする。だがそこで彼
は、ダブルフェイスに背を向けたまま尋ねた。
「匂わんか？」
と…
「いや、別に何も匂わないけどねえ。アンタの斬った男の血の匂いと、アンタ自身
の酒の匂い以外にはさあ」
やや皮肉めいた口調でダブルフェイスは言った。そんな彼の言葉に対しバードは
ただ一言“そうか”と言って部屋をあとにする。
「アル中の人斬りが」
バードの姿が見えなくなってからダブルフェイスはそう毒づくが、そんなこと、無論
彼の耳には入らない。だがバードは、小さくため息をついた。
「ヤツには感じられんか、己の破滅の匂いが…」
閉ざされたドアを背にそうつぶやくと、バードは侵入者のいるであろう場所へと歩き
出した。足取りはゆっくりとしているように見えるが、歩くスピードは常人の駆け足よ
りもはるかに速い。彼は館内を五分ほど歩くと、行き止まりの壁に突き当たった。
「いるな…」
耳を澄ましつぶやくと、バードは腰を落とし、鞘に収まったままの刀に手をかけた。
居合い斬りによる抜刀の構え。バードは軽く息を吸い込み、呼吸を止める。
「血風斬！」
その掛け声とともにバードは刀を抜き、壁を横薙ぎに一閃した。武器が鞘に戻ると
同時に壁には賽の目状の斬り筋が無数に入る。
（避けたか！）
刀の手ごたえに、バードは舌打ちをした。同時に壁はバラバラと崩れ落ちて行き、
あたり一面に濛々とした煙が立ち込める。煙の向こうには、完全な形の人影があ
った。
「つぁっ！」
人影に向かい、バードは収めた刀をまた薙いだ。だが人影はそれをかわし、バード
の懐へと飛び込む。刀はまだ鞘に戻っていない。バードは膝蹴りで相手を迎撃する。
人影がそれを受け止めた頃には、あたりに立ち込めていた煙も晴れ、互いに相手
の顔を確認できるようになっていた。
「まだ生きさらばえていたか、愚物が」
「そりゃこっちのセリフだぜ、師匠」
ゴーツとバード、館内で出会った二人はそう軽口を飛ばし合う。しかしそこには既に、
他のいかなる者の介入も許さない空気が出来上がっていた。
そしてその一方…
アルケミストは森の中で、自身の携帯端末に流れてくる館内の情報を凝視していた。
彼が持っているホムンクルスはフィノだけではない。秘密裏に作成し、館内に放って
いたＣＣＤカメラを積んだ鼠やフィノ以外の鳥形（ただし知能・戦闘力などはフィノより
大きく劣る）を通じ、どこで何が起こっているのかについての情報は逐一彼に入って
くる。バードとゴーツが接触したのを確認すると彼は腰を上げ、服についた埃をパン
パンと叩いた。
「…結局、ゴーツを利用することにはなっちゃったな。突っぱねておいてさ」
アルケミストはそう言うと自嘲気味に笑った。そんな彼のことを、肩に止まったフィノ
が不思議そうな顔で見る。
「そんな顔するなって」
フィノの頭を軽く撫でて餌をやると、アルケミストは腕時計に目をやった。
（残り時間はあと少し…今行きますからね、お姉さん…）
そしてアルケミストは、やや緊張した面持ちで通いなれた道を歩き、教団本部へと
向かった。道中、知っている顔にも何人かすれ違ったが、彼らは皆、アルケミストの
横を素通りして行くだけであった。
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