〜始まりの終わりとなる日々に〜

第二部第二十六話 疾風は勁草を吹き荒し



 アルケミストが教団本部に足を踏み入れたその頃、ゴーツとバードは依然として激
しい攻防を続けていた。

「血風斬っ!」
バードは一度鞘に収めた刀を、かけ声とともにまた抜いた。抜刀の速度が生み出す
衝撃波は真空の刃となって再びゴーツを襲う。刃は間断なくゴーツに迫るが、彼はそ
の全てを見切り、薄皮一枚斬らせる以上の傷を与えさせない。だがバードに対して
ゴーツは、その薄皮一枚の傷さえも与えることができずにいた。
 抜刀している相手と丸腰の自分では、リーチが決定的に違う。しかも接近戦に持ち
込もうにもバードの体捌きもまた、ゴーツに劣るものではなかった。
 バードは、一度後ろに跳躍し、間合いを取った。
「身のこなしはマシになったと言ってやるべきか…それとも六年間、逃げ足だけを鍛
え続けたか?」
 言いながらバードは、刀の峰で自身の肩を軽く叩いた。だがそんな飄々とした姿勢
とは裏腹に、全身には一片の隙もない。
(くそ…)
 ゴーツは、そんな相手の懐に飛び込むタイミングを見出せずにいた。するとバード
は、そうしたゴーツの心を見透かし笑った。
「無駄だと思うがな。丸腰の貴様に喰らう俺じゃねえってことは、お前も分かってる筈
だ。それより…」
 バードは懐から少し軽くなったスキットルを取り出した。
「せっかくの再会だ。乾杯といかんか?」
「…なんだと?」
 薄笑いを浮かべながら酒を勧めるバードに、ゴーツは逆に身構えた。その言葉と
態度から殺気は感じられない。だがそれ故に、何を考えているのか分からなかった。
師匠なら殺気を隠すくらい簡単だろう、そう身構えるゴーツを尻目に、バードはスキ
ットルをグイと一口あおる。
「師匠…ナメるのもいい加減にしとけよ…」
「ナメてなんかいねえよ」
 バードはもう一口酒をあおり、口を拭った。
「お前からは破滅の匂いがしねえ。ここで俺に斬られる宿命(さだめ)には無え。ただ
それだけの事だ」
「破滅の匂い…アンタの決め台詞だったよな、昔から」
 バードの言葉にゴーツはニヤリと笑い頷くと、指を広げて右手を突き出した。そし
てその手に向かって投げられたスキットルを、微動だにせず受け取る。
「んじゃその破滅の匂いっての、アンタ自身はしてるのかい?」
「してるさ」
 さも当然のような口調だった。
「ただ、俺の匂いはまだ薄い。当分、くたばらねえよ」
「酒の匂いで、気づかないだけじゃねえのか?」
 あざ笑ってそう言うと、ゴーツはスキットルの蓋を開け、匂いをかいだ。
「ウィスキーか」
「ああ。しかも極上物だ。まさか飲めないとは言わねえだろうな」
「飲めないことはないさ。けど、バーボンの方が好みだ」
「そうかバーボンか…フ…フフッ…フハハハハハッ!!!」
 ゴーツの何気ない一言に、バードは手を叩いて笑い出した。何がそんなにおかし
いのか、ゴーツには分からない。しかしバカにされているというのだけはよく分かる。
「何がおかしい!」
 笑い続けるバードに、ゴーツは声を荒げた。するとようやくバードは笑うのをやめ、
指で目じりを拭いながらゴーツの方を見る。
「いかにもお前らしい、そう思っただけだ。他意は無え」
「バーボンが…俺らしい?」
「ああ」
 ゴーツの問いかけにバードは頷いた。
「なんせバーボンは、ウィスキーの派生物だからな」
「!!!!!」
 瞬間、ゴーツはスキットルをバードに向かって投げつけ、それを追い越す勢いで
自身も飛びかかっていた。安い挑発に乗った自分を頭では後悔しているが、怒り
の本能はそれをはるかに超越している。
「ククッ」
 怒りの形相で飛びかかるゴーツを、バードは狂気の笑みで迎え撃った。刹那、突
撃しあう互いの身体が交差し、二人は立ち位置を変えた所で踏みとどまる。
 しかし、踏みとどまった直後にゴーツは片膝をついた。左脇腹のあたりに刀傷を
受け、右手で押さえても指の隙間からじわりと血が溢れ出してくる。
「ゴーツ」
 背後からバードの声が聞こえてきた。だがその声は遠く、しかも背を向けたまま
話しているように聞こえた。
 すれ違った瞬間、ゴーツの拳も相手を捉えていた。肋骨の数本は折った感触が
ある。そう自由に、身動きのできる傷ではない筈だった。
「六年間…寝て過ごしていたのではないようだな…だがな」
「…だが?」
「今、お前の手に短剣一本でも握っていれば、俺のハラワタを引き裂くことができた
筈だ。それがほんのアバラ三本」
「拳と剣じゃ戦い方が違う。重さも違う。直撃できたとは限らんさ」
「短剣一本で速度が鈍る貴様でもないだろうに」
 バードはまたククッと笑い出した。
「誰を傷つけようが、誰の命を奪おうが、その傷に、その命に、一切の責を負わぬ
のが戦士、お前にはそう教えた筈だがな。まだ、乗り越えられんか」
「………」
「まあいい」
 バードがゆっくりと立ち上がる音、服についた埃を落す音がゴーツの耳に入った。
「せいぜいそうやって、逃げ回っているがいいさ。俺からも、戦士としての生き方か
らも、そして、お前の兄貴からもな」
「逃げる…?それは違うな、師匠」
 バードが立ち去る前に、ゴーツもそう言って立ち上がった。彼は着衣の一部を破
くと、腹部に巻いて止血する。
「俺はアンタの教えから逃げるために教団を離れたんじゃない、否定するために離
れたんだ」
「フン…」
 ゴーツの言葉を鼻で笑うとバードはスキットル最後の一口をあおった。どうやら交
差した瞬間にしっかり掴み取っていたらしい。
「この俺を否定か…それなら、エヴィン・ハランツに会ってみるといい」
「エヴィン…ハランツ?それってまさか…」
「ああ、父親だよ。お前がケツ追っかけてここまで来た女のな」
 バードはスキットルを逆さまにし、最後の一滴まで空にした。
「面識…あったのか?」
「無えよ。話はおろか、すれ違ったことさえも無え。だがな…」
「…だが?」
「あの男がどんな生き方をしてきたのか、それを知れば知るほど、俺はアイツに虫
唾が走る、反吐が出る、この刀の錆にしたくなってくる、この俺を否定したいのなら、
今の俺が否定したい相手に接してみるのも一興だろうよ」
 バードの言葉に、嘘は無かった。口調はこれまでと変わらず斜に構えた、皮肉屋
の口調だが、言葉の裏にある憎悪と嫌悪感に、偽りはない。ただ、なんでバードが
そんなにもエヴィンのことを嫌悪するのか、ゴーツには分からなかった。
「師匠…」
「俺を否定するんだろ?だったらもう、師匠なんて呼ぶんじゃねえよ」
「……」
「さあ、さっさとお前の道を行きな。もっとも…」
 バードは刀を、鞘ごと腰から抜き出した。そして右手で柄を握り、左手で鞘を握る。
鞘は、上等な漆を塗ったかのような漆黒の一色、だがその鞘から、動物的な唸り声
が響き始めた。同時に、周囲の空気も震動を始める。そしてゴーツは、鞘の先端で
切れ長の瞳が自分のことをギョロリと睨むのを、確かに見た。
(なんだこの鞘…声も、震動も、こいつから…)
「こいつを前に、生き延びることができればだがな」
 口元に穏やかな笑みを浮かべそう言うと、バードは己の刀を鞘ごと、大上段に振
り上げた。

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「おい、今誰か通ったか?」
「いや?気のせいだろ」
「だよな」
 今日の教団本部内では、至る所でこんな会話が聞こえてきた。一瞬誰かが通っ
たような気がするが、振り返ってみても誰もいない。もっとも夜勤番の交代時間が
間近にせまっていたから、それを感じた誰もが、疲れているのだろうくらいにしか
思わなかった。
(気のせいじゃないんだな、これが)
 そんな彼らの横を、アルケミストは笑いを噛み殺しながら通り過ぎていた。今の
彼の姿は、他の人間には見えない。それは肩に乗ったフィノも同じだった。フィノ
はアルケミストの肩の上で油断無く周囲を見渡しているが、アルケミストはそんな
フィノが可笑しくて仕方ない。
「大丈夫だよフィノ。みんな、僕らの姿は見えていないんだ」
「ピイ?」
 アルケミストの言葉にフィノは首をかしげた。そんなフィノの反応に、アルケミスト
はまた笑う。
「フフ…さすがに分からないよね、言ってる意味。それより先を急ぐよ。ゴーツ・ドー
シュに先を越されたら厄介だ」
 アルケミストはまた小走りに駆け出した。このとき、彼は知らないことだが、当
のゴーツはバードにつかまり、大きく時間をロスしている。もっともそれを抜きにし
ても本部内の構造は完全に理解しているし、シェリーがどこに幽閉されているの
かも大体の見当がつく。競走するには、かなり有利な状況だった。
 やがて地下牢の入り口に近づいてくると、アルケミストはガラにも無く心拍数が
上がるのを感じた。
 だが地下牢への入り口手前、最後の曲がり角を曲がった瞬間、アルケミストの
心拍数はさらにもう一段、ドクンという鼓動が自分の耳にも聞こえるくらいに上が
った。牢番をしていた二人の男は地面に倒れピクリとも動かない。そして彼らの
横では一人の女性が、気だるそうに壁にもたれかかっていた。
 女性の年齢はシェリーと同じかやや上くらいで体は細身、服装は上がモスグリ
ーンのシャツで下はクリーム色のコットンパンツ、髪型はポニーテールで顔は細
面だが一体型のサングラスをかけているので素顔は見えない。
(どこかで会ったような気もするけど…)
 相手を見ながらそんなことも考えるが、確証ある記憶は浮かび上がって来ない。
とりあえず黙らせるためにストリングを出そうとするが、女性はそんなアルケミスト
の方を向くと不敵な笑みで笑った。
(まさか?見えている筈は無い)
 思いながらもアルケミストは警戒し、急ぎストリングを撃ち出そうとする。だが、
それよりも早く彼女の手が動いた。
(!?)
 瞬間、身の危険を感じたアルケミストは両手を挙げて防御の構えを取った。
 そしてそれとほぼ同じタイミングで、ジャケットの脇腹あたりの生地が硬質化し、
かすかな金属音が床に響く。床を見ると、細長い針が一本、転がっていた。
「やっぱり貴方が先に来たわね、アルケミスト。姿を消して来るなんて、色々と疑念
を掻き立てられるけど」
(………!)
 得意げな声だった。その声でアルケミストの額に冷たい汗が流れる。すると女性
は、クスリと笑った。
「そんな顔しなくてもいいわよ。私はあなたの動向を監視しに来た教団のウォッチ
ャーなんかじゃない、ただの侵入者なんだから」
 “なお悪い”そう言い出したいのを、アルケミストは必死で押さえた。相手に聞こ
えるような声を出したら、周囲にも勘付かれる恐れがある。
 そんな風に言いたい事をこらえるアルケミストに対し、彼女はまた何かを言おう
とした。だがそこで彼女は人差し指をアゴに当てて上を向き、何かを考えるような
表情になる。それからアルケミストがいる方を向いてニコと笑った。
「やめとくわ。見えない上に返事もしない相手と話してても馬鹿みたいだし」
 そう言って彼女は軽くため息をつき、おもむろに立ち上がるとその場をあとにし
ようとした。アルケミストはそんな相手を追おうとするが、彼女はもう一度、アルケ
ミストの方を見てニコと笑う。
「追いかける?戦う?それでもいいわよ。せっかくゴーツ・ドーシュに先行したのを、
フイにしていいのならね」
 そう言い残し、隙だらけの背中を晒して立ち去る彼女に、アルケミストは何もする
ことができなかった。

 それから少しの間、アルケミストは呆然としていた。時間にすればほんのわずかな
時間、フィノの声で我に返るまでたった数秒、しかし不思議と、ずいぶん長いこと呆
然としていたような気がした。
(こんなことしてる暇は無い!)
 彼は我に返るとまず、倒れている看守達に麻酔薬をかがせ、彼らの眠りをさらに
深いものにした。そして地下牢の鍵束を奪い、束のうちの一本を使うと、地下への
扉は簡単に開く。アルケミストは高鳴る胸の鼓動を抑えながら暗く、湿気で滑りやす
くなっている石段を慎重に下って行った。
「フィノ」
 廊下に立つと、アルケミストは肩にとまっているフィノに目配せをした。その合図で
フィノはアルケミストの肩を離れ、廊下と階段にある監視カメラを片っ端から破壊す
る。
「ご苦労さま」
 肩にもどってきたフィノの顎を撫でると、アルは自分の姿を他の人にも見えるよう
にした。シェリーに会ったとき、気づいてもらえないじゃあまりに恰好がつかない。
 アルケミストは暗く長い廊下を歩いて行く。彼の左右にはいくつもの鋼鉄製の扉が
並んでいるが、どれも人の気配はしない。だが一番奥の一室だけ、人の気配がした。
 扉にはめられた鉄格子から中を覗くと、壁に向かってうずくまり、すすり泣いている
シェリーがいた。そんなシェリーの姿に、アルケミストの胸は少し痛んだ。
「お姉さん」
 小さな声でアルケミストは呼びかけた。しかしその声に、シェリーはピクと反応した
だけで振り向こうとしない。
 もう一度声をかけてもそれは同じだった。
 鍵を開けても、扉を開けても、シェリーはその音に小さく反応するだけで、決して
振り返ろうとしなかった。
(罠だって疑ってる?)
 シェリーの動きを見て彼は思った。だとしたらダブルフェイスはここまでの恐怖を、
彼女に与えたことになる。アルケミストが一歩、また一歩近づいても、シェリーは背
を向けたままアルの姿を見ようともしない。そんなシェリーの態度に、アルケミスト
はとうとう業を煮やした。
「お姉さんっ!!」
 瞬間的にアルケミストはシェリーの左肩を掴み、強引に自分の方を向かせた。び
っくりした、怯えた顔でシェリーはアルのことを見る。その瞳は真っ赤に泣き腫らし
ていて、いつもの勝気さは全く無かった。
「お姉さん」
「あ……アル…なの?」
「ええ。お姉さんのこと、迎えに来まし…」
 だがアルケミストが自分の言葉を言い終わるよりも前に、シェリーは彼の胸に顔を
うずめて泣きじゃくっていた。背中を丸め、声にならない声をあげながら。
「アルっ…アル……っ」
「………」
 突然、かつまるきり不慣れな出来事にアルケミストは硬直してしまい、何をしていい
のか分からなくなった。しかしやがてシェリーの涙がおさまってくると彼は静かに息を
吸う。両腕でギュッと抱きしめたい衝動を抑えて、アルはシェリーの両肩を掴むと、そ
っと自分から引き離した。肩は、思っていたよりもずっと細かった。
「あ……」
 引き離されたシェリーは上目遣いにアルケミストのことを見た。潤んだ瞳と不安げ
な表情で自分を見つめるシェリーにアルケミストは息を呑み、顔が熱くなるのを感じ
ずにはいられなかった。頭のヒューズも飛びそうになるがそれでも何とか、彼は自分
の言おうとしていた言葉を吐き出した。
「迎えに来ました。教団に…僕の所に来てください。何も…何も、しなくていいんです
…ただ、僕のそばにいるだけで…」
「アル…」
 そう口にするシェリーの声と体は震えていた。目が泳いでいる。すごく迷っている、
それがアルにも分かった。
(そんなに、嫌なんですか?教団の人間になることが…)
「お姉さん!僕は…」
 だがアルケミストがそう言いかけたとき、シェリーが何かに気づいたような、ハッと
した表情になった。瞳に生気が戻り、ザッと右足を後ろに引く。そして力一杯の声で
叫んだ。
「アルっ!!!」
「!?!?!?」
 次の瞬間、シェリーは全力でアルのことを殴り飛ばしていた。顔の正面、顎の部
分を音速拳で正確に打ち抜いて。あまりに唐突で予想外のことだったので、ガード
をする暇もない。その一発でアルの身体空中で一回転しながら、はるか後方へと
弾き飛ばされていた。
(な…なん、で…?)
 宙を舞いながら、アルケミストは何が起きたのか信じられずにいた。だが彼の身
体が転がるようにして地面に叩きつけられる寸前、彼はシェリーのしたことの意味
を理解する。
 アルのいた場所の横にあった石壁が破壊音とともに一瞬にして崩れ落ちた。石
壁はまるで無数の刃と鈍器を放り込んだ竜巻に巻き込まれたかのごとくひしゃげ、
切り刻まれ、ボロボロになって原形をとどめていない。しかも破壊された石壁は一
枚ではなく、破壊の直系も3メートルを越える。そして周囲には、無味無臭の黒い
煙が立ち込めていた。
(これはバードの『黒龍の柩』…お姉さん、これを感知して…ってお姉さんは!?)
 土煙のすごさに顔を逸らしていたアルケミストだが、そう思うと彼はすぐに、シェ
リーの方を見ようとした。立ち込める埃の向こうに、シェリーの影が見える。
 だが、彼がそっちに向かって走って行こうとした瞬間、天上の瓦礫が崩れ落ちて
きて二人の間を塞いだ。
「お姉さんっ!」
 瓦礫の山に向かってアルは叫んだ。しかし彼がそうしている間にも、破壊の衝撃
で周囲の壁も連鎖反応的に崩れだす。そしてアルケミストの周囲を、フィノが騒が
しく鳴き声をあげながら飛び回った。
「ピィッ!ピィッ!!ピィッ!!!」
「フィノ…」
「ピィ」
 フィノは主人と目が合うと、彼を誘導するかのように水平飛行をしだした。だが、
アルの“待て!フィノ!!”の一言で、再び彼のもとへ戻ってくる。
「僕らの姿を見えなくしてからだ。グリーンハーミット!」
 かけ声とともにアルケミストは指をパチンと鳴らす。それからまた、フィノの誘導
に従って走り出した。

 一方のシェリーも、辛うじて部屋の崩壊から逃げおおせていた。瓦礫の間にで
きた隙間に飛び込み独房から出ると、あとは何かに追い立てられるかのように、
屋敷の中を走り抜ける。完全に、無我夢中だった。
(逃げないと…逃げないと…)
 だが、そんな全力疾走の先にあったのは袋小路だった。前は行き止まりで左
右も白く塗られた分厚い石壁、シェリーは不安そうに周囲を見回した。
「行き止まり…はやく、引き返さないと…」
「いんやあ、ここが文字通り、キミにとってのデッドエンド、まさにジ・エンド・オブ・
ザ・ロードなんだなあ」
「ひっ…」
 曲がり角の向こうから聞こえてきたその声に、シェリーの歯はガタガタと音を
立てて震え出した。角から影が見えると彼女はもっと先へ逃げ出そうとする。が、
壁にドンと体をぶつけ、その場にしゃがみこんでしまう。しゃがむと、手足もガタ
ガタと震えだした。
「知らなかったかなあシェリー・ハランツ」
 声の主はわざとまだ姿を見せず、影だけを見せたまま喋り続けた。
「人間ってのはねえ、ある一定条件下で心理的圧迫状態に陥った時、年齢・性
別・知力・体力・性格にかかわらず全部同じ行動パターンをとっちゃうんだなあ。
そして、地下牢から逃げ出したヤツが行き着くのが、この袋小路ってワケ」
「あ、あ・あ…」
 しゃがみこんだまま、シェリーは腰が抜けたみたいに身動きが取れなくなった。
影の主も、それが見えている。見えているのを十分に分かった上で、ゆっくりと
シェリーの前に姿を現した。
「漫画でも取り上げられたくらい有名な法則なんだけど、知らなかったかなあ?」
「ダブル……フェイス………」
 震える声でシェリーがそう言うのを聞くと、ようやく彼は姿を現した。顔は、もの
すごく残念そうな顔をしている。
「悲しいなあ、シェリー・ハランツ」
「………?」
「手錠の鎖を切ったら殺すってちゃんと書いておいたのに、信じてくれなかったん
だねえ。僕はとっても悲しいよお」
「!!!」
 ダブルフェイスにそう言われて、シェリーは初めて自分の手に嵌められた手錠
の、糸のように細い鎖がぷっつり切れていることに気づいた。アルを咄嗟に突き
飛ばした(殴り飛ばした)ときに切れたものだった。必死に言い繕うとするシェリー
に、ダブルフェイスはゆっくりと手をかざす。
「ディストーション」
「いやぁぁぁあああっ!!!」
 シェリーの全身をまた、引きちぎられるような痛みが襲った。最初の一瞬以外
涙も出せない、悲鳴もあげられないほどの強烈な痛み、だがダブルフェイスは、
すぐにそれを解除するとうずくまるシェリーのもとへ歩み寄った。
「言えよ、お前は一人で逃げ出したのか?」
「え…?」
「鎖を切って逃げ出したのは、貴様一人でやったことか?」
「は…はい……私が一人で…」
 だがシェリーがそう言いかけた瞬間、ダブルフェイスは彼女を足蹴にしていた。
「あ…あが…」
「人を騙すプロを相手に、下手糞な嘘つくんじゃねえよ」
「ほ…本当です…本当に私、一人で…ご、ごめんなさ…」
「るせぇ!」
 涙目のシェリーをダブルフェイスはもう一度蹴り飛ばす。だがしばらく何かを考
えると彼は数歩さがり、そしてニコと微笑んだ。

「だったらさあ、こういうのはどうだあい?シェリー・ハランツ」
「…???」
「キミを牢屋から出した相手は誰か、素直に白状したら見逃してあげるよお」
「…!!!」
(フン…脈アリか)
 シェリーの見せた一瞬の表情の変化に、ダブルフェイスは内心ほくそえんだ。
彼女を逃がしたのは誰なのか、大体の予想はついている。分かった上で、あえ
てこの揺さぶりをかけた。
「けど、このチャンスの制限時間は10秒だ。さ、いってみようかあ」
 ダブルフェイスはポケットから懐中時計を取り出し、その秒針に目をやった。
 そしてすぐに10からのカウントダウンをはじめるのだが、彼の口が3と言い
かけた所で、うつむいたままシェリーは口を開いた。
「ア……ト…」
「うぅ〜ん?なんだってぇ〜?」
 ダブルフェイスはニヤニヤ笑いながら聞き耳を立てた。そんなダブルフェイスを
相手に、シェリーはもう一度口を開く。
「ア……ト…」
「聞こえねえんだよ!もっとデカイ声で言いやがれ!」
 シェリーの声がさっきと同じ、蚊の鳴くような声だったのを受けて、ダブルフェ
イスはそばにあった石壁をドンと叩いた。だが彼が壁を叩いた直後、シェリーは
飛び膝蹴りでダブルフェイスの顔面目がけ攻撃していた。
「んなぁっ!?」
 ダブルフェイスは咄嗟に身を低くして飛び膝蹴りをかわした。
 だが相手を飛び越したシェリーは空中で一回転し、屈んだ彼の首筋を狙って
オーバーヘッドキックを放つ。プロのサッカー選手顔負けなその一撃は相手の
首筋を正確に強打し、ダブルフェイスの肥えた体を壁際まで吹っ飛ばしていた。

「アリガトって言ったのよ」
 起き上がるダブルフェイスを遠目に見ながら、聞かれるより先にシェリーは答
えた。
「アンタの下衆い誘いが、私に死んでも譲れないものがあるって気づかせてくれ
たからね。しかもアンタのマジックバリアも、どうやら常時絶対ってワケじゃなさ
そうだし」
「キサマ…」
「借りは返すわよ!ダブルフェイス!!!」

第二部第二十六話 完

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