〜始まりの終わりとなる日々に〜

第二部第二十八話 長すぎる一日の終わり



「さ、ついて来て!」
 言うが早いかシェリーは屋敷の中をスタスタと歩き始めた。
 ジェニファーは一瞬あっけに取られたが、慌てて彼女の後を追う。
 だがすぐに二人は、教団員と思しき二人の男に、ばったり出くわしてしまった。
「君達は…見ない顔だが、新しい入団者か?」
「そんなのが来るとは聞いてなかったけどなあ…」
 教団内でもそれなりの地位にある人間なのだろう。二人はシェリー達を見ていぶか
しげに言い合う。そんな彼らに、シェリーは笑顔で首を横に振った。
「そんなんじゃないわ」
「?それなら君は…」
「侵入者よ!」
 瞬間、シェリーは彼らを音速拳で殴り飛ばしていた。吹き飛んだ二人が起き上がる
前に、顔を引きつらせたジェニファーがシェリーの肩をグイと掴む。
「何考えてるの!」
「さっき言ったとおり!」
 ごく短い、全く回答になっていない言葉でシェリーは答えた。男達はよろよろと起き
上がると、鼻血を抑えながらシェリー達を見る。
「侵入者…だと!?」
「そうよ!」
 言いながらシェリーは、挑んできた一人を今度は蹴り飛ばした。男は吹っ飛び、壁
に叩きつけられて気を失う。
 そして間髪入れずもう片方の男との間合いを詰め、パンチをかわして懐に飛び込
むと、引きつった相手の顔にデコピンをした。
「もっと歯ごたえのある相手連れてきなさいよ」
 シェリーにそう言われると、男は這う這うの体で駆け出して行った。

「…どういうつもり?」
 シェリー問いただすジェニファーの視線はかなり険しかった。そんなジェニファーの
表情に、シェリーは困った顔で苦笑する。
「だからさっき言ったとおりよ。ゴーツのこと、放っとけないでしょ?騒ぎが大きければ、
向こうも嗅ぎ付けやすいだろうし」
「…やっぱりそういうつもり、か。………このバカ娘が」
「バ…バカむすめ…?」
 その一言に、シェリーの目が点になった。ジェニファーを指差し、おそるおそる口を
開く。
「そのフレーズってもしかして…」
「あなたのお父さんに言われたのよ。あんまり無茶苦茶するようだったら、そう呼んで
やってくれて構わないって」
「パパから…」
「ええ。あなたのこと、とても心配してたわ。ホント、いいお父さんね」
「うん………って、そこまで分かってるんならもっと早く助けてよ!ホントに怖かったん
だから!」
「それならそれで、好都合だと思って」
 身を乗り出すシェリーに、ジェニファーは罪悪感ゼロの顔でそう答えた。
「私の任務は、あくまであなたを無事に家に送り返すこと。あなたが挫折し、家に帰る
と言い出してくれれば、それでも私の任務は完了」
「うぐ…」
「もっとも、今はあなたも立ち直っちゃったし、ゴーツ・ドーシュと合流して、ここから脱
出するまで、きちんと協力させてもらうわ。眠らせて連れてくわけにもいかなそうだし」
「ありがと、ジェニファー」
 ニコと笑ってシェリーは礼を言った。そんなシェリーに、ジェニファーはやれやれとい
った顔で、軽くため息をつく。
「それにしても、ずいぶん彼に義理立てするのね。好きなの?」
「ぶっ…」
 ジェニファーの一言に、シェリーは豪快にむせた。
「なんでそうなるのよ!」
「あら違うの?通り一遍の義理人情にしちゃ熱心すぎるし、昔彼に、レネゲイツの本拠
地で抱きかかえられてたときなんかも、まんざらじゃなさそうな顔してたけど」
「あ、あれは…て言うかなんでそんなこと知ってるのよ!」
 当然な疑問が、シェリーの口をついて出る。
「見てたから。ついでにあそこであなた達を殺そうとしていた副長とかいうの捕まえて、
ここの見取り図手に入れた」
「そ、そう…か、影で色々頑張ってくれてたのね…」
 口を動かしながらシェリーの脳裏に、そのとき(二部十三&十四話)のことが明確に
甦った。
 たしかにあのとき、嫌な気はしなかった。フワリと持ち上げられたときのあの感触と、
真っ赤にした顔の熱さや心臓の鼓動の記憶に、なんかまた、顔が熱くなってくる。
「べ、別にそういう間柄とかじゃないわよ!」
「あら…そうなの?」
「そうなの!」
 上がった心拍数を誤魔化そうと、シェリーは大声でまくし立てた。今顔が赤いのは
怒鳴っているからだ、そう言外にアピールしたがっているのが丸分かりで、ジェニフ
ァーはそんなシェリーの顔をニヤニヤ笑いながらしばらく眺める。
 そして息を切らしたシェリーの口が止まった瞬間、間髪入れず合いの手を入れた。
「じゃ、アルケミストの方が本命?」
「げほっ…」
 ジェニファーの一言に、シェリーはもう一回、前より豪快にむせた。頭をガバと上げ、
腕をブンブンと横に振る。
「いやいやいや!それこそありえないから!」
「あらそう?」
 シェリーの抗議を、ジェニファーはしれっとスルーした。
「やめてよね!さっきから根拠もなくそういうデマカセ言うの!」
「根拠が無い?デマカセ?本当にそう言い切れる?胸に手を当てて考えてみなさいよ」
「………」
 言われるままに、シェリーは自分の胸に手を当てた。初対面で妙になつかれ、シー
レン戦で助けられ、写真を撮られ、食事に誘われ、震える体で腕を掴まれ、さっきも
また助けられ、その胸で泣きじゃくって…
 考えれば考えるほど、上を向いていたシェリーの頭が自然にうな垂れていった。そし
てしばらく沈黙した後、シェリーはボソボソとしゃべりだす。
「だって、あの子まだ中学生くらいよ?私とは年も…」
「そうねえ」
 ジェニファーのニヤついた笑みに、さらにもう一枚意地悪さが加わった。
「たしかに、あと四年もしたら年増のあなたになんて見向きもしなくなっちゃいそうね。
あの子、すごい美男子になりそうだし」
「ジェニファーっ!!!」
 顔を真っ赤にし、半分涙目でシェリーは叫んだ。
 だがそんなシェリーも、それを見つめてニヤニヤ笑っていたジェニファーも、次の
瞬間に表情を一変させた。カツーン・カツーンと角の向こうから響いてくるその足音
に、二人はグッと身構える。
「どうやら来たみたいね…あなたのお望みどおり」
「ちょっと、望みより上すぎるのが来ちゃった気もするけど」
 身構えながら二人は言った。足音はまだ遠いが、プレッシャーは半端じゃない。
「私が仕掛けるわ」
 動こうとするシェリーを腕で制し、小声でそう言うとジェニファーは懐から20センチ
くらいの針を数本取り出した。針は細く、シェリーでも目を凝らさないとよく見えない。
ジェニファーはそれを相手の死角から投げようと構え、全身で相手の動きと気配を
感じ取った。
「くらえ…」
 好機と見るや、ジェニファーはそれを死角から無音で投げつけた。
 しかし、投げた針の全てが二人の目の前で、一瞬黒炎に包まれたかと思うと消し
炭になって地面に落ちた。同時に、渋みのある男の声が聞こえてくる。
「暢気なものだな。侵入者が侵入先で、茶飲み話に花を咲かせるとは」
 角から出てきた男は二人を睨み、そう言った。黒い髪をオールバックに束ねた、
腰に一振りの刀を差した五十代前半の男性だった。

「ハランツの小娘…それにそっちは、前からウロついてた女か…」
「あなたは…」
 眼前の男に見据えられ、シェリーは自分の身体が小刻みに震えだすのを感じた。
 恐怖で震えているのか、それとも武者震いなのかは分からない。いずれにせよ、
目の前にいる相手は只者ではない。
「俺はバード、剣にて奮う武威をもって教団に仕える、S級の一人だ」
 シェリー達が何も言う前に、バードはそう言って二人の方を向きなおした。そして
まるで値踏みをするかのような視線で、シェリーのことをじっと見る。
 やがて彼が笑い、何かを言いかけたところで、今度はバードが来たのとは反対の
方向から、フラついた大きな足音が聞こえてきた。

「シェリー………ハランツっ!!」
「ダブルフェイス…」
 シェリーは逆方向から来た相手を見据えた。ダブルフェイスの手には拳銃こそ一丁
握られているが、満身創痍で手も震えている今の彼は、脅威でも何でもない。
 そんな気持ちが自然と表情に出たのだろう。様子を見ていたバードはカラカラと笑
い出した。
「ザマぁ無ぇな、チャーリー・ハンツマン」
「バード!!!」
 その一言でダブルフェイスの表情がまた変わった。
「S級の名を教団内で言うのは厳禁の筈だぞ!」
「…堅気の小娘一人にしてやられた貴様が、まだS級を名乗るつもりか?」
 バードの刺すような視線に、ダブルフェイスは一瞬怯む。だがそれでも彼は、喚き
続けた。
「ぐ…あ、あれはヤツが下らん小細工するからだ!!それさえ無ければ!俺は勝」
 しかしダブルフェイスの言葉は、バードの放ったさらに強烈な殺気で完全に押し止
められた。肌がビリビリと痛くなるような、空気が振動するような殺気が、対象外であ
るシェリーやジェニファーの動きも止める。
「チャーリー、テメエはもうS級じゃねえ」
「!!」
 バードの右手が腰に差した刀の柄に向かった。
 それを見て、シェリーもバードに飛びかかる。
 バードとダブルフェイスの間には十歩分以上の距離があるのに殺気は本物、その
ことがシェリーの体を反射的に動かせた。
「せいっ!」
 地を這うように低い姿勢のダッシュで接近すると、シェリーは右膝を蹴り上げた。
無論体は、刀の直線軌道から軸をずらしている。万一自分に向かって刀を振って
きても、致命傷にはなりえない。
「チッ!」
 舌打ちしながらも、バードは刀を居合いで抜いた。瞬間、シェリーの真横を真空の
刃が通り抜ける。刃は地面の石畳を少し削りながら一直線に飛び、ダブルフェイス
の体をかすめ、後ろの壁を穿った。
「今のは…」
「血風斬だ。しかしお前も残酷な女だな」
 衝撃波の威力にシェリーは目を見張る。だがそんなシェリーにバードが笑いながら
言ったその一言の意味が、彼女には理解できない。
「どういう事?」
「見りゃ分かるさ」
 そう言ってバードはダブルフェイスのことを指差した。
 指差されたダブルフェイスはしばらく呆然としていた。シェリーは、そんな相手の様
子を遠巻きに伺う。するとやがて、ダブルフェイスはブルブルと震え始めた。
「う…ううう…うお…うわ…うわぁあっぁぁああ!!!」
「………」
 涙で顔をクシャクシャにしながら、ダブルフェイスは壁に手を当て、頭を打ち付けて
いた。その表情からは完全に正気が失われている。やがて額が割れ、頭から血を
流すと今度は周囲をキョロキョロと見回し、シェリーを見つけるとドタドタとした足音を
立てながら彼女の方へと走り寄ってきた。正直、かなり怖い。
「な…」
 唖然とした顔で、シェリーは向かってくるダブルフェイスをかわした。ダブルフェイス
はバランスを崩し、無様に頭から転ぶ。それでしばらく動かなかったがやがて立ち上
がると、またシェリーの所へ向かい、号泣しながらシェリーのことをポカポカと叩いた。
完全に駄々っ子のパンチで、無論攻撃力なんて微塵も無い。
「ふざけないでよ!」
 シェリーが突き飛ばすと、ダブルフェイスを仰向けに倒れた。そしてオイオイ泣いて
いたかと思うと立ち上がり、あさっての方向に走り去った。

「………」
 ダブルフェイスの奇行を見て、シェリーは放心状態になった。目が点になったまま
彼が走り去った方向を見つめ、何を言えばいいのか分からない。
 ジェニファーはそんなシェリーに何か言おうとしたが、それより先にバードが理由を
説明した。
「ブッ壊れちまったのさ、あの男は」
「壊れ…た?」
「ああ、完全に壊れちまった。文字通りの再起不能(リタイヤ)ってヤツだ。徹頭徹尾、
お前のせいでな」
「私の…せい?」
「ああ」
「どういう意味よ」
「………」
 しかしバードは、焦るシェリーをはぐらかすかのように懐からスキットルを取り出し、
その栓を開けた。だが持ち上げ、傾け、口をつけても酒は一滴も落ちてこない。
「そういやカラだったな」
 苦笑してスキットルを懐にしまうと、バードはまたシェリーを見た。
「S級にとって最大の罪は何か分かるか?」
「裏切り…よね?やっぱり」
 しばらく考えてシェリーは答えた。だがバードは小馬鹿にした笑みを浮かべながら、
首を横に振る。
「それが最大の罪なのはA級までだ。Sにとって最大の罪は、己の分野で負けること。
アイツは騙し合いの腕でS級になったのに、それを見破られ、あまつさえ敵に騙され
て負けた。文字通り、死に値する罪ってヤツだ」
「………」
「その汚名を雪ぐには、負けがバレる前に貴様を殺すしかない。そのためヤツはこ
こに来た。だが結果は見ての通り、殺すどころかお前に命を救われちまった。しかも
それを、同じS級の俺に見られた。完全に破滅だよ」
「破滅ねえ、私が蹴り入れてなきゃ、破滅どころか死んでたけど」
「違いない」
 反論するシェリーの言葉を口ではそう肯定しながら、バードはまた冷笑した。
「だがそのときは武士の情けだ、名誉の戦死にくらいはしてやったさ。少なくとも、こ
れからアイツを待ってる現実よりは遥かにマシだ」
「待ってる現実…じゃあ、やっぱり教団の追っ手に消されるの?」
「利用価値も脅威も皆無なゴミにかまけるほど、俺らも暇じゃねえ。自分で腹を切る
度胸も無い男だ、どこかのスラムでゴミにまみれて野垂れ死にするだけだろう」
 説明を終えると、バードはもう一度シェリーの顔を見た。
「どうだ?シェリー・ハランツ。人間一人、ぶっ壊した感想は」
「………」
 シェリーの回答をバードは楽しそうに、ジェニファーは固唾を呑んで見守った。だが
シェリーは、顎先を指でつまむとすぐに、得意げな顔でニヤリと笑う。
「このシチュエーションで言うべき台詞、持つべき感想って一つだけでしょ?」
「ほう…なんだ?」
 その顔に、バードは思わず引き込まれた。ジェニファーはものすご〜く不安そうな、
ジト〜とした目でシェリーの次の言葉を見守る。
 そんな二人の前で、シェリーはVサインをして、明るく笑って見せた。
「正義は勝つ!」
「ぶっ…ははははは!!!」
 顔から答えがある程度予想できていたのだろう。シェリーの一言でジェニファーは
頭を抱えるが、バードは手を叩いて笑い出した。
「面白え…テメエは正義か!」
「少なくとも、カタギの女の子を拉致して脅して監禁するようなヤツよりかはね」
「違いねえなあ。ダブルフェイス、アイツは本当に外道だった。救いようのないほど
にな。教団でも誰からも嫌われていた男だ。もっとも、だからと言って俺が、ヤツを
壊した相手を見逃していいって法にはならんがな」
 口を動かしながらバードはゆらりと刀に手をかけた。
 だが彼の手が柄を握る直前、ジェニファーがサッとシェリーの前に出て、彼の腕
めがけ針を投じた。
 同時に、何者かが投げたコブシ大の瓦礫が一つ、時速150キロは出ていそうな
勢いでバードの横っ面を襲う。
「チィッ!」
 瞬間、バードは歯を食いしばり、自分の額を真正面から瓦礫にブチ当てた。頭突
きの一撃で瓦礫は粉々になって地面に落ちるが、ジェニファーの針はバードの神経
節を貫き、彼の右腕は刀を鞘から抜きかけた状態で固定される。そしてバードの意
識が固定された腕に向いた刹那、シェリーはバードに飛び蹴りを放っていた。
「貰った!」
「甘え!」
 腕を固定されたまま、バードは右足を蹴り上げた。スピード、鋭さ、ともにシェリー
の蹴りに負けておらず、しかも鉈のような重みがある。
 二人の足が空中でぶつかり合うとシェリーはその反動で間合いを離し、バードから
五歩程度の距離にサッと着地した。
「驚いたわね…刀だけだと思ってた」
「戦場では、蹴りも重要な技術だ」
「ああ、たしかに前からそう言ってたな」
 バードの言葉に、シェリーでもジェニファーでもない人間が陰からそう答えた。三人
の目が、いっせいに声のしてきた方向を向く。
「ゴーツ!心配したのよ!!」
「そりゃこっちの台詞だ。でも思ったより元気そうで安心したぜ。ナイトな気分は半減
だが」
「ま、こうなるまでにかなり色々あったけどね」
 ゴーツとシェリーはそう言って微笑みあった。だがゴーツは、体のあちこちに大小
十数か所の傷を負っている。しかしそれでも彼は、バードの方を向くと、睨むような
視線を彼に向けた。
「どうするバード。いくらアンタでも三対一、しかも右手を封じられちゃ分が悪かろう」
「フ…フフフ…」
「………?」
 ゴーツの言葉に、バードは笑い声で答えた。
 その笑い声に、シェリーは背筋がゾクとした。バードはこの状況を全く恐れていな
い。むしろ心から楽しんでいる。彼の笑い声から、すぐにそれが分かった。
「分が悪い…あまりに長く聞かなかったから、もう言葉の意味も忘れちまったぜ…」
 空気の流れが変わった。バードの周囲に黒いモヤが立ちこめ、彼を包む温度が
爆発的に上がってゆく。
「教えてくれよ!その言葉の意味を!!」
「え…」
 その言葉が聞こえた次の瞬間、シェリーの首は胴体と生き別れになっていた。
 首から上のシェリーは上空で目を見開き、自分の胴体を見る。バードが刀をもう
一回振ると、今度は彼の刀は残されたシェリーの胴体、心臓をを貫いていた。

 だがそこで一回『ダン!!』と大きく足を踏み鳴らす音がすると、シェリーは我に
返った。
「私…生き…てる?」
 シェリーは恐る恐る首筋を撫でた。出血はなく、傷もない。バードの刀が貫通した
筈の服も撫でたが、ほころびさえも無かった。
「幻覚…だったの?」
 言いながらシェリーは恐る恐るバードのことを見る。だがバードはゆっくりと、首を
横に振った。
「幻覚じゃねえ。闘気がお前に見せたイメージだ。そして闘気を真正面から、正確
に受け止めないと俺が見せようとしたものは見えん。お前が首と心臓を撫でたって
ことは、マトモに受け止めるだけの器はあるようだな」
 シェリーにそう語るバードの口調は、これまでとは違い満足そうで、しかもどこか
穏やかだった。バードはその表情のままゴーツを見る。その眼差しはどこか、エヴ
ィンが自分に向けるものに似ていた。
「ゴーツ、お前、この女に惚れたか?」
(な゛………)
「ああ、どうやらとりあえず、ヤニよりかはな」
 親指でシェリーを指しながら言ったバードの言葉にゴーツはそう答えた。
(あのバカ…)
 ゴーツが“ああ”と言った瞬間、シェリーの心臓はドクンと鼓動していた。だが比較
対象にタバコを出され、今はかなりふてくされた表情になっている。
 しかしバードは、ゴーツの一言にかなり驚いた顔をしていた。
「そいつは大したモンだ」
「フン…で?こっからどうする」
 からかい顔のバードから少し目をそらしながらゴーツは言った。その言葉に対し、
バードはクルと背を向ける。
「帰るさ。分が悪いんでな」
「な…」
「この状況で、逃がすワケないでしょ!!」
 意外な一言にゴーツ、ジェニファー、そしてシェリーはバードの背中に飛びかか
ろうとする。
 だがその瞬間、バードから再び黒いモヤが立った。そのモヤはまるで意思を持
っているかのように三人の前に立ちふさがる。
「こいつ…さっきも出かかってた…」
 シェリーの額に冷汗が流れた。立ちふさがったこのモヤに、今にも喰い殺され
そうな気にさえなる。
 そして三人の前で黒い壁のような形を作っていたモヤは、やがて一匹の巨大な、
煙でできた黒き龍の形となった。煙体とも実体とも定かでないその龍は、己の身を
大きくうねらせ、うなり声をあげてシェリー達三人を威嚇する。
「あばよ」
 威嚇する龍の向こうで、封じられた筈の右腕を振りながらそう言うバードの後姿
が見えた。
「黒龍王、帰るぞ」
 続いてバードがそういうと、龍は三人の前から忽然と消えた。そしてバードの姿
と気配も、龍の姿と同様にそこから完全に消え失せていた。
(何…今の…黒龍王って言った?)
(師匠…)
「帰るわよ」
 呆然と立ち尽くすシェリーとゴーツは、ジェニファーのその一言で我に返る。疲労
もあるし恐怖もある。二人はジェニファーの言葉に素直に従った。

 三人が館の外に出たとき、まだ夜の闇は深かった。時計を見ると時間は午前三
時を少し過ぎている。
「島に戻る頃には朝だな。この一帯から離れたら、レネゲイツと連絡を取る」
 大きく伸びをしてゴーツは言った。
「私達は寮に戻るわ。シェリー、それでいいでしょ?」
「うん。ただ…」
「ただ?」
「ちょっと、先に行っててくれる?私まだ、ここでやること残ってるから」
「やる事?」
 いぶかしげな顔で、ジェニファーはシェリーの言葉を鸚鵡返しする。
「うん、ホントちょっとの間だけ。先に行ってて。すぐに追いかけるから」
「…分かったわ」
 あたりを見回し、軽くうなずいてそう言うと、ジェニファーはゴーツと一緒に市街地
に通じる坂を下りていった。

「………」
 二人の姿が見えなくなると、シェリーは軽く息を吸い込み、満天の星空を見上げて
今日一日を思い返した。
 ダブルフェイスに拉致されたのが昼過ぎだった。それからまだ15時間と経ってい
ないのに、なんだかそれがひどく昔のことに思える。
 あれからまともに寝ていないし食事もとっていない。疲労はピークの筈なのに、今
はそんなこと、全く気にならなかった。
「いるんでしょ?アル…」
 誰もいない空間に向かいシェリーは言った。するとその言葉に応えるかのように、
パリンパリンとガラスの割れる音があちこちからする。
 その音にシェリーはあたりを見回したが、二分ほどしてその音が鳴り止むと目の
前の空間から
「すごいなあ」
 という返事が聞こえてきて、見慣れたブロンドの少年が姿を現した。
「アル…」
 姿を現したアルケミストの名を、シェリーは静かに呼んだ。
「どうして分かったんです?」
「なんとなく…本当になんとなくよ。アルが、そこにいる気がしたから。あの…ありが
とう、助けてくれて…」
「………」
 その一言で、アルケミストの頬は少し赤くなった。そのことを自覚したのか、アル
ケミストは顔をプイと横にそらす。
「いいですよ、お互いさまですし…それより…行くんですか?お姉さん」
 少し沈黙した後、軽く吸った息を吐き出しながらアルケミストは言った。その問い
かけにシェリーは答えない。ただ真っ直ぐに、アルケミストのことを見つめていた。
その表情だけで、シェリーの決心が痛いほど分かった。
「…なんでです?お姉さんが教団に入れば全てが丸く収まる…それなのに」
「丸く収まらないからよ」
「………!!」
 凛としたその一言にアルケミストの顔は再び正面を向いた。言葉の意味が理解
できない。身の安全は保障すると言っているのに、彼女の家族に手出しさせない
ことだって出来ないことはないのに、何故、シェリーはそんなことを言うのか、何が
まだ不安なのか…しかし彼がそれを聞くよりも先に、シェリーは答えを言っていた。
「あなたのことよ、アル」
と。

「僕の…?」
「腐れ外道なダブルフェイスや人を斬ることに何ら罪悪感を持っていないバード、
ああいう連中とあなたが同列っていうのがどうしても理解できないし耐えられなく
てね」
「お姉さんが気にすることじゃないですよ。それに前にも言いましたけど、教団は
僕にとっての全てなんですから」
「アル」
「…なんです?」
 鼻で笑ってそう言うアルケミストに、シェリーは一回軽く歯を食いしばり、そして
口を小さく開けて息を吸い込んだ。何かの覚悟を決めた、そんな視線でアルの
ことを見つめながら。
「あなたは私に、“何もしなくていいから教団に入って”って言ったわよね」
「言いましたけど?」
「それなら私からも言わせてもらうわ」
「?何を…です?」
 シェリーの真剣な眼差しに、アルケミストも息を呑んだ。シェリー右手を胸に軽く
当てる。そして高鳴る心臓の鼓動を感じながら、彼女は口を開いた。
「何でもするから、教団から抜けて」
「な…」
 ズザザザという騒々しい足音を立てて、アルケミストは大きく後ろに飛び退いた。
「正気…ですか?」
「とりあえず、本気は本気なつもりよ」
「………」
「………」
 二人の間に、重い沈黙の空気が流れた。木の上で身を休めていたフィノも、降り
てきてパタパタと羽ばたきながら、アルのまわりを不思議そうに旋回する。
「フィノ」
 アルケミストの一言で、フィノは彼の肩に止まった。
「フィノって言うんだ。その子…」
「ええ…シェリー酒の…お姉さんと同じ名前を持つお酒の一種から取りました」
「…私の…」
 その一言で、シェリーの顔が照れくさそうにすこし赤くなった。けれどアルは、そん
なシェリーの反応に構わず自分の言葉を続ける。
「どうやら僕たち、どこまで行っても平行線みたいですね」
「アル…」
「次に会うときに決着をつけましょう。それがいつになるかは、僕にも分かりません
けど…」
「アルっ!!」
 悲しそうにそう言い残すと、アルケミストは姿を消した。シェリーは叫び、周囲を見
渡すが、さっきはかすかに感じられた気配すら、もう感じられない。

「やっぱり、アルケミスト絡みだったわね」
 物陰から様子を見ていたジェニファーは嘆息とともにそう言った。無論、隣にゴー
ツもいる。腕組みをして木に寄りかかり、いかにも大して興味はなさそうな顔をしな
がら、二人のやり取りの一切を見ていた。
「妬ける?」
「別に」
 うざったそうに手を振ってそう言うゴーツを、ジェニファーはクスリと笑った。
「けど、どう始末をつけるつもりなのかね、アイツは」
「シェリーのこと?」
「それもそうだがアルケミストのヤツもだ。教団がどこまでS級に鷹揚なのかは知ら
んが、誤魔化せるのか?」
「分からないわね…何かしらの対策は用意して動いていると思うけど。でも」
 そう切り出してジェニファーは話の内容を変えた。
「シェリーがダブルフェイスを倒した。教団にとってこれは、有数の大事の筈よ」
「違いねえ。…俺も、ちょっと先を越されちまったな」
「妬ける?」
「そっちの方は、少しはな」
 ジェニファーとゴーツはそう言いあうとシェリーの先回りをしようと道なき道を急ぎ
降りた。

 こうして、この長い一日は終わった。そしてジェニファーの予想どおり、この一日を
境に、状況の歯車は大きく動き出すことになった。

第二部第二十八話 完

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