場所は変わりネオアリサ、ティリアの街、世界中のどこにでもある少し高めのバーで二人
の男が酒を飲んでいた。一人はエヴィン、一人はマーク。エヴィンは物憂げな表情でウィス
キーグラスを傾け、マークは親友のそんな顔に苦笑いしながらグラスを傾ける。
「ちょっと、ペースが速いんじゃないか？明日も仕事だろ？」
飲みはじめてから三十分足らず、エヴィンはすでに二杯目のロックを空にしていた。口当
たりはいいが度数四十度を超える酒、いつもなら一回の酒席で飲む量と大差ない。
「なんか今日は、そんな気分でね」
言いながらエヴィンは三杯目のウィスキーに口をつけた。
二人の後ろでは、赤いドレスを着た三十そこそこの女性がジャズピアノを演奏していた。
薄いオレンジの照明とグラスを拭く中年のマスターがピアノの調べによくマッチして、エヴィ
ン達も含めて一つの風景画のようになっている。だが、今のエヴィンにそんなことを考える
余裕はなさそうだった。
「シェリーの活躍がそこまで意外だったか？」
マークの質問に、エヴィンはフウとため息をついた。
「ああ。すぐに挫折して引き返してくる、完全にそう思っていた」
「が、現実には幹部の一人を叩きのめして、教団からの注目度をバッチリ上げた。あの子
の思惑通りにな」
マークはガラスの小皿に盛られたナッツを一つ口に放り込んだ。
「だから昔から言ってるだろ？シェリーは天才だって」
「天才ねえ。今回の勝ちも、ずいぶん運にも助けられたみたいだけど」
「それでもだ」
今度はマークは、白い皿に盛られたナチュラルチーズに手を伸ばした。
「勝利は勢いを与えるもんだ。今回の勝ちをきっかけに、あいつはまだまだ伸びる。そうな
れば敵の注目度も青天井だ。そういう時…どうする？エヴィン」
「どうするって？」
「オレならいつでも行けるぜ。力も、現役の時と変わらない自信はある」
「お断りしておくよ。それに…悩みはそれだけじゃないさ」
グラスの縁をなめると、エヴィンは吐き捨てるようにそう言った。
「アーサーのことか？たしかにアイツも平行世界から来たっていう…ユエリって言ったっけ
か？と組んで教団と戦う気は満々みたいだが…」
「いや…ジニーのことだ」
「ジニーちゃん？」
エヴィンの回答に、マークは心底意外そうな顔を見せた。
「おいおい、まさかあの子まで教団がどうとか言い出したとか言うなよ？」
「そういうのじゃないけどさ」
そこでエヴィンはグラスの中身を半分くらい空ける。そしてゴンという鈍い音とともにグ
ラスを置くと、深いため息をついた。
「なんか…様子がおかしいんだよ。一昨日か？たしかそれくらいから」
「…一昨日？」
その言葉にマークは首をかしげた。一昨日と言うとと記憶をほじくり返す。その一方で
「変って、どんな風にだ？」
とも尋ねた。
「なんかボーッとしてるって言うか、上の空って言うか…どうかしたのかと思って聞いてみ
ても顔真っ赤にして部屋に閉じこもるし…」
（………あ）
それでもうマークは何のことなのか分かった。１００％恋煩い。しかも、たぶん初恋。そ
して相手は深遠の探求者、Ｓ級幹部の一人アルケミスト…
「なあ、何か心当たりあるか？」
エヴィンの一言でマークは我に返った。そして瞬時に、どこまで話をすべきかを考えた。
エヴィンもマークも、アルケミストのことは知っている。シェリーからの連絡でも、よく目
にする名前だ。
しかも敵組織の幹部であるのにも関わらず、彼について語るシェリーの論調は多分に
好意的だった。なんか懐かれてる、どこか憎めない、最近はそれとなくだが、何とかして
教団から抜けさせたいということまで書かれている。
そして、だからこそ二人は『アルケミスト』を非常に警戒していた。教団が一筋縄ではい
かないことは分かっているし、なんのかんの言ってシェリーも優しい。二人は彼女が騙さ
れているんじゃないかと警戒していた。
そんな状況でジニーがアルケミストに恋をしたなんてことをエヴィンが知ったら、彼はど
んな行動に出るだろう？マークはそれを考えた。
（愛娘二人をたぶらかした男、教団の卑劣性の具現者、くらいのことは言いそうだな）
隣で目が据りかけているエヴィンを横目にマークは思った。
そうなったら彼が、三十年ぶりにネイソードを握る展開もありうるだろう。そのときエヴ
ィンはどんな顔をしているだろうか？鬼神の表情か、それとも口元にうっすらと笑みさえ
浮かべた、意外なほどに穏やかな表情だろうか？いずれにせよ、アルの人生にバッド
エンドという名の幕が下ろされるのは間違いない。
だがマークは、その展開を見たいとは思わなかった。
もしシェリーのメールでしかアルケミストのことを知らなかったら、彼はそういうエヴィン
に同意しただろう。けれど実際に彼が見たアルケミストは温和で人当たりの良い少年の
顔の下には冷徹と欺瞞があり、しかしその奥底には一転の曇りもない赤心があった。
仮面を、二重にかぶっていた。マークにはそれが、ひどく気がかりだった。
「ま、ジニーちゃんもそういう年頃ってことだろ？」
考えた末にマークの口から出た言葉はそれだった。その一言にエヴィンは訝しげな顔
をする。
「そういう年頃？」
「誰か好きな相手でもできたんだろうよ。そういうことに対して、エヴィンお父さんは心配
症か？」
「そうか…いや、心配って言うか…たしかに、そう言われれば色々と辻褄は合う」
ブツブツと言いながらエヴィンは三杯目のウィスキーを空にした。そして目を瞑り、深
いため息をつく。
「僕らも年を取るわけだな」
「どうしたんだよ急に」
「順調に行けばあと六年でアーサーが職に就いて、十年もしないうちにシェリーは嫁に
行く。そこまでは想像がついてたんだ。けどジニーは、なんとなくいつまでも小さい気が
してな…本人が聞いたら、怒るかな」
「酔ってんなあ、いくらなんでも話が飛躍しすぎだぞ」
「マークはいいさ、１０歳と６歳じゃ、まだまだ先の話だから」
「まあな。でもいずれは出くわす問題だ。将来オレがどう悩むか、せいぜい今のお前を
参考にさせてもらうよ」
「フフッ…」
「ハハッ…」
マークの一言に、二人は心から愉快そうに笑った。
そんなことがあった日の翌日、放課後、ジニーは一人で商店街をうろついていた。
買いたいものがあるのではない。誰かと約束しているのでもない。ジニーがそこをウ
ロついていた理由はただ一つ、そこでアルケミストと会ったからだった。
「ダニエルさん…」
アルが言っていた偽名をつぶやくと、ジニーはフゥとため息をついた。
彼はあれから何度も夢に出た。夢の中で彼はジニーに優しい微笑みを向け、自分
のことを見てくれている。二人がいる場所は暖かい春の日が差す公園だったり、一
緒に食事をした喫茶店だったり、ジニーの部屋だったり色々だったが、場所がどこで
も二人の手がそっと触れ合おうとしたところで目が覚めるのは同じだった。
目が覚めるとジニーは暗い部屋を見渡し、がっかりし、熱くなった顔と高鳴る胸の鼓
動を静めようとまたベッドに潜り込む、そんな日が続いたせいで、ジニーは少し寝不足
だった。
だが、そんな寝不足のジニーに背後から迫る影があった。影の主は音も無く背後か
ら忍び寄ると、あくびをしているジニーの肩をポンと叩く。
「ひっ！？」
全身をビクッと反応させると、ジニーは口から飛び出しそうになる大声を必死で抑え
た。そしてそのまま、首だけクルと後ろを向く。
「なに道草してるんだ、ジニーちゃん」
「マークさん…やだもう」
胸をなでおろすとジニーははにかみ、マークの顔を見た。そんなジニーに“誰か待っ
ているのかい？”と聞くと、ジニーは顔を赤くして困ったように目を逸らす。
（こりゃあかなり重症だな。て言うかこれで気づかんのかエヴィンのヤツは）
ジニーの態度とエヴィンの朴念仁にマークは苦笑した。
しかし次の瞬間、マークの表情は一気に険しいものになった。左腕でジニーを抱き寄
せ、横っ飛びに跳躍する。そしてマークの足が地面を激しく擦りながら着地したときには、
二人がさっきまで立っていた場所の壁は土煙とともに無くなっていた。
「マークさん！？」
突然の出来事にジニーは目を白黒させることしかできない。だがマークはそんなジニー
にニコと、頼りがいのある笑顔を見せた。
「ドッキリカメラだよ」
「え…？」
「笑ってないと、カメラが見てるぞっ！」
「え？え？えええええ？？？」
その一言でジニーの頭は完全に混乱しだした。結果、逆にパニックにならずにマーク
の腕の中で引きつった笑顔のまま硬直する。下手に腕の中で動かれるより、こうしてい
てくれた方がよっぽどいい。ジニーを左腕でギュッと抱きしめると、マークは全身の神経
を敵の気配探知に集中させた。
（そこか！）
わずかな気配の動きを感じ取ると、マークは即座に何もいない方向へと走った。そし
て彼が走りながら蹴り技の態勢を整えた瞬間、半人半馬とでも言うべき漆黒色の魔族、
カオスブリンガーが姿を現す。
「ジェノサイドカッター！」
カオスブリンガーが何の攻撃態勢も整えないうちに、マークの右脚が弧を描いた。刀
より鋭く、鉄槌のように重いその一撃はまず下段で右前足の膝から下を切り落とし、グ
ラと傾いたところで上段へと弧を描いた蹴りが今度は砲身のついた右腕を根元から切
り落とす。そして残った左足一本で跳躍してカオスブリンガーの脳天に踵落としを叩き込
むと、カオスブリンガーの姿は煙となって消滅した。
（…マークさん…）
全てを見ていたジニーの身体が、勝手にガタガタと震えだした。本当にテレビの撮影？
そんな疑心が、ジニーの中でどんどん強くなる。だがジニーの考えがまとまるよりも早く、
マークは再び跳躍した。
（今度は…何？）
上空からジニーは地上を見た。マークの向けている視線の先、そこには茶色いフード
つきのローブに薄汚れた黄緑色のマントをつけた気持ちの悪い怪人がいて、しかも右手
に持った杖を自分達の方に向けていた。
（少し遅いか！）
敵の動きを見て、マークは体を半回転させた。次の瞬間、コブシ大の氷塊が散弾のよ
うに二人を襲う。
「怖い！」
マークの腕の中でジニーは身を屈めようとした。窮屈でうまく身を屈めることはできない
が、マークが盾になってくれているから自分に攻撃は当たらない。だが頭を上げてマーク
のことをチラと見ると、服が破けて何箇所か流血していた。
「マークさ」
「武神っ！！」
着地し、ジニーが口を動かすよりも速く、マークは『怪人』を殴り飛ばしていた。『怪人』
は数メートル向こうの壁まで吹っ飛び、叩きつけられ、やはり蒸発したかのように消える。
だが、それと同時にまた一体、背が３メートル以上はありそうな、巨大な怪物が二人の
背後に現れた。怪物がゆっくり両腕を振り上げると腕と体の影が二人をすっぽりと覆う。
しかしマークの心は動じない。
（見え透いてるな！）
すでに気配を感じ取っていたマークは余裕をもって拳を引き、武神の咆哮を連撃で叩き
込もうと身構える。だがそこで、彼にとって完全に計算外のことが起こった。
「マークさん！危ない！！」
「な…？」
悲鳴にも似たジニーの声が聞こえた瞬間、マークの体は何メートルも先に弾き飛ばされ
ていた。痛みは無い。まるで同極の強い磁石同士が反発したかのように、マークの身体は
ただ弾き飛ばされていた。
「ジ…」
飛ばされて宙を舞うマーク、その視線の先にジニーはいた。当然、自分の腕の中からは
いなくなっている。目は驚きで見開かれ、すぐに言葉を出すことができない。
「ジニーちゃん！！」
着地寸前、ようやくそう言えたとき、マークの視界にもう一人、男が忽然と現れた。顔は
見えないが白いスーツを着た、青い髪の若そうな男、彼が茫然自失なジニーの肩にポン
と手を置くと、次の瞬間男とジニー、ついでにさっき自分が殴り飛ばそうとしていた怪物は
また忽然とその姿を消していた。
（何が…起きた？）
呆然としそうな自分の心を静めて、マークは周囲を見渡した。ジニーの姿はどこにも見
えない。そしてまわりの人間は皆、自分を奇異と好奇の目で見ていた。
（とりあえず撮影か何かだと思われてる間に、逃げた方が無難だな）
心の中でそうつぶやいて頷くと、マークは足早にそこを立ち去り、そして走りながら考え
た。自分を突き飛ばしたあの力に、敵意は無かった。あれは間違いなく、ジニーがやった
物なのだと…
そしてその頃、ジニーは突然変わった周囲の風景に何が起きたのか分からずにいた。
商店街にいたはずなのに、なぜか薄汚れたビルの一室にいる。そして隣にいたはずの
マークも、いつの間にかいなくなっている。
「…マークさん？」
不安げな声でジニーは首をキョロキョロさせる。そしてそこでジニーは、自分の隣にいる
背の高い青年の存在に気づいた。青年はじっと自分を見ている。その視線にジニーは寒
気を感じ、息を呑んだ。
「あ…あの…ど、どな…どな…た…」
どなたですかと言いたいのに、恐怖で震えて言葉にならない。青年はそんなジニーを見
下ろしながら静かに答えた。
「キース・ドーシュ。ジニー・ハランツ、分かりやすく言うのなら、たった今君のことをさらった
誘拐犯だ」
「ゆ…誘…か…」
「少しは、自分の置かれている状況が理解できてきたか？」
口をパクパクさせるジニーにそう言うと、キースはタバコに一本火をつけた。そして煙草
をくゆらせながらジニーの様子を見る。誘拐されたと言われてから体の震えはますますひ
どくなり、やがてペタンとその場に両膝をついてすすり泣きをはじめる。キースはそんな様
子を見て軽くため息をつくと、吸っていた煙草を踏み消した。
「哀れなものだな、そんなに怯えてしまうとは」
「………」
「家に帰りたいか？ジニー・ハランツ」
「………」
キースの言葉に頭を上げると、ジニーは体を震わせたまま、小さく首を横に振った。本
心はもちろん違うけれど、怖くて首を縦に振ることはできなかった。そんなジニーに、キー
スはまた問いかける。
「帰りたいのなら、なぜそうしない？出るのは簡単だ。誘拐犯の私を吹き飛ばし、そこの
扉から出ればいい。ここにいるのは君と私だけ、ビルにトラップは無いし、今日は護衛も
つけていない」
「………」
「“できるわけない”という顔をしているな。本当に自覚していないのか…」
言うとキースは横を向き、右腕を突き出した。突き出した腕の先には机があり、その上
に置かれた空き缶がある。
「ヒューン！」
かけ声とともに部屋の空気が動き、真空の刃が空き缶をズタズタに切り裂いた。ジニー
はそれを、呆気に取られた顔で見る。
「これくらい、君もすぐにできるようになる」
「私…が…？」
「そうだ。ジニー・ハランツ、君には曾祖母から受け継いだ力が流れている。君の姉さん
や兄さんには受け継がれなかった、強大な力だ」
「私の…力？ひいおばあちゃんから…？お姉ちゃんやお兄ちゃんが持ってない…？」
「そうだ。幸い私は、多少似た力を持っていた。だから、君の力に気づくことができた」
半信半疑のジニーにそう言うと、キースは光の射す窓の方へと歩き、もう一本タバコに
火をつけた。そして青空を見上げ、背中を見せたままジニーに問いかける。
「ジニー・ハランツ、君が家族から愛され、慈しまれて育ってきたというのは見れば分かる。
自分に限らず、誰が見たってそれは分かるだろう。だがジニー、君はこれまでの人生で家
族に頼られたことはあったか？」
「頼られた？私…が？」
「そうだ。ジニーがいて良かった、ジニーがいて助かった、この仕事はジニーしかできない、
そう家族から言われたことがあったか？」
ジニーの顔を横目で見ながらキースはまた問いかけた。聞かれたジニーの顔に戸惑い
の色が浮かんでいるのがありありと見える。もう、震えはほとんど止まっていた。
（あと二押しというところだな）
その顔色を見ると、キースはつけたばかりのタバコを窓枠に押しつけた。そして光を背
に受けながら、再びジニーの方に歩み寄る。
「私は君の家族が注いだような愛情を注ぐことはできない。だが、誰よりも君の才能を理
解し、それを引き出すことができる。そうすれば誰もが君を見る目を変える、君に一目置
く、ジニー・ハランツという人間の存在を、誰もが無視できなくなる。想像してみるといい、
その世界を！見る目が変わった君の家族を！！」
「う…あ…」
キースの誘いに、ジニーは何と答えていいのか本当に分からなくなった。みんなの見る
目が変わる世界、今まで想像しなかった世界が、少しずつ彼女の中で作られていく。けど
キースという人間を信じていいのか分からない。むしろ心は、信じちゃいけないと必死で
ブレーキをかけている。
「で、でも私は…私はそんな…」
「君を見る目が変わるのは、なにも家族に限った話ではない」
ジニーへの最後の一押しに、キースは懐から一枚の写真を取り出した。その写真を見
るやジニーの顔は真っ赤になり、ガバと立ち上がる。
「ダニエルさん…」
「悪いけどそれは偽名でね。本当は私達の所属しているグループの大幹部、下の人間か
らはアルケミストと呼ばれている」
「アルケ…ミスト…」
「すぐに会わせることはできないが、君ほどの才能だ。少し頑張れば、いつでも彼に会え
るようになる。どうだ？それでも君は、私について行きたくないか？」
言葉は疑問系でも、キースは相手の言うであろう回答は完全に分かっていた。やがて
ジニーは、彼が期待したとおりの言葉を口にする。
「それでは行きましょうか、ジニー」
キースは優しい笑顔でそう言うと、まるでワルツの相手の手を取るように、そっと右手を
差し出した。
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