「誰です？」
少年の声がノックに答える。
「バードだ」
「どうぞ。開いてますよ」
少年の声がそう答えると、バードは扉を開けた。
「邪魔するぜ、アルケミスト」
「どうしたんです？こんな時間に」
「その様子だと、ニュースも見てねえみたいだな」
ドカとソファに腰をおろしバードが言う。
「ああ、そういえば…今日ジャン・フランを暗殺しに行ったんですよね」
「まあ、しくじったがな」
「え…？」
呆気に取られるアルケミストに、バードは自分の指輪を投げて渡した。
「直しといてくれや。明日の朝までにだ」
「明日…？この傷だと、普通二週間はかかるんですけど」
「代金は言い値で払う。人手も足りなきゃ貸す」
「…一体、何があったんです？」
「まあ、話せば長くなるんだが」
酒も無い部屋だったのでテーブルに置いてあったブラックチョコレートを一つ口に運ぶと、
バードはさっきの出来事を一通り説明した。
「そのこと…ボイスに報告は？」
「まだだ。まずは指輪の修理をお前に頼みたかったんでな」
「…ディルナという男は倒したのに、ですか？」
修理の準備をしながら、訝しげにアルケミストは尋ねる。
「ああ。ヤツを斬った瞬間から、俺を包む破滅の臭いが一段と強くなったんでな。いつ何が
起きてもいいように、準備はしておきてえ」
「準備…己の運命に抗う準備ですか？」
「フン…」
アルケミストの言葉を鼻で笑うと、バードはチョコレートをもう一つ口に入れる。
「俺は自分の振う刀がもたらすいかなる結果についても、一切の責任は負わない。そういう
信念の下に生きてきた。それは自分に対しても同じこと。俺が振った刀に宿った怨念が、い
つ自分に跳ね返っても後悔はしない。ただそのときは、どうせ最後だ。力の限り暴れたいじ
ゃねえか」
「…そんな運命、いっそ逃げたらどうです？戦略的撤退というヤツで」
「そいつは、俺のガラじゃねえ」
「………」
そう言い切られると、アルケミストにはこれ以上かける言葉がみつからなかった。
だがそんなアルケミストの態度に、むしろバードが意表を突かれる。
「アルケミスト…お前、変わったな」
「変わった？僕が？」
「ああ。昔のお前は、仕事の理由を客に求めなかった。ましてや、破滅を語る人間を前に
今みたいなこと言ったり、そんなツラすることなんて絶対ありえなかった。何がお前を変え
た？」
「さあ…僕は変わったつもりはありません。だから心当たりもありません」
「そうか…まあ本人がそう言うのならそれでいい。しかしお前さん、最近Ｂ級以下の連中に
ずいぶん評判いいらしいぞ。人当たりがよくなったとか、人間味が出てきたとか」
「…そんなことを…あとで、重々問い詰めないといけませんね」
「問い詰める、か。俺なら迷わず斬り捨てるがな」
そう言って一人笑うとバードは席を立った。
「さてと、ボイスに不始末の報告しなくちゃな。ああ、それと」
「…まだ何か？」
呆れ、うんざりした様子をアルケミストは隠そうともしない。が、バードはそんなアルケミスト
の眼前に詰め寄るとニヤリと笑った。
「お前もＳ級なら、欲しいモノは必ず手に入れろよ…狙ったら、絶対に逃がすんじゃねえ」
「な゛…」
「フフ…」
顔を赤くするアルケミストの肩をバードはポンと叩く。
「じゃあ、仕事の方よろしくな」
そう言い残すとバードはラボをあとにした。
そしてバードとアルケミストがそんなやり取りをしていたのとほぼ同時に、『トライデント』エレ
ナ・バーンハイトにも同じニュースは届いていた。
「ディルナが…」
「はい。先ほど、バードとの戦いの末に討ち取られたとの情報を入手しました」
シーレンの報告に、さすがにエレナはしばらく硬直していた。目を閉じると、三十年前トライ
デントにいたときの様々な出来事が鮮明に甦っては頭の中を駆け抜けて行く。
「あのときヘラルドが自滅して、ヴァルグも消えて、そして今、ディルナも…トライデントの四傑、
残ったのは私一人というわけね」
「フィル・グレアムはまだ存命ですが？」
「たしかに彼も一瞬だけトライデントにいたけど、トライデントの人間としては一緒に活動してい
ないから」
言うとエレナは椅子の背もたれにその身を寄りかからせた。
「シーレン、コーヒーを淹れてもらえる？砂糖３つで」
「了解しました」
そしてシーレンがコーヒーを淹れに立ち去ると、エレナは今から三十年前、ディルナと最後に
会ったときのことを思い返した。
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「これは…？」
ディルナが差し出したアタッシュケースとその中身に、エレナは胡散臭げな視線を向けた。
中には山吹色の金属塊がぎっしりと詰まっている。
「金だ。元素記号Ａｕ、元素番号７９番。重量は約５０キロで時価２千万メセタ相当。お前が運
ぶのにはきついだろうが、シーレンなら楽に運べるだろう」
「そんなの分かってるわよ」
あくまで事務的に、淡々と話すディルナにエレナは舌打ちをする。
「それを持ってきた意図を知りたいって言っているの。手切れ金？それとも口止め料？」
「ああそういう意味か」
エレナの言葉に、ディルナは少しだけ優しそうに笑った。
「退職金だと思ってくれればいい」
「…退職金？」
「トライデントはもう、実体を留めていない。お前がここに残る意味もあるまい？そして、新たな
道を歩むには資本もいるだろう。シーレンの手入れも考えれば尚更な。お前のラボも手つかず
だ。必要なものがあれば、適当に持って行けばいい」
「へえ…」
ディルナにそう言われ、エレナは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ちょっと前までなら、考えられない言葉ね。よっぽど（対エヴィン戦での）打ち所が良かったの
かしら？それとも、今のあなたが本当のディルナ・ロックフィールド？」
「まさか」
皮肉めいたエレナの言葉に、ディルナもまたシニカルな笑みで返した。
「こんな表情は仮面にすぎんよ。できることなら、自分の吐く言葉を全て『』で括りたくなる」
「はっきりしてるわね。それで、あなたはこれからどうするつもりなの？」
「とりあえず、この仮面をつけて父親の真似事でもしてみるさ。娘が、一人立ちするまではな」
そしてディルナはクルと振り返り、エレナに背を見せる。
「もう会うこともないだろうが…達者でな」
「…ディルナ…」
目の前の相手の名前を小さくつぶやいた後、エレナは何も言うことができなかった。言いた
い言葉はあったのだが、喉元でそれが止まってしまう。
だがディルナの姿がだいぶ小さくなったところで、エレナは声を張り上げた。
「ディルナ！」
「………」
その声が届いたらしく、ディルナの足がピタと止まる。
「どうせなら…一生つけてなさいよ！その仮面！！」
エレナの言葉に、ディルナは軽く右手を挙げて応えた。
だが振り返ることはせず、エレナもまた、そんなディルナを追いかけることはできなかった。
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（本当にあれが今生の別れになったわね…ジャン・フラン、エリー・ロックフィールドの結婚相手…
それを護るためにバードと戦い、そして死んだ。でも…）
シーレンの淹れてくれたコーヒーを二口ほど飲み、エレナはまた考えた。彼女も、邪神クルウ
ェルとの戦いの中で父を亡くしている（「後伝」第二部第十六話参照）。そしてエヴィンも、再び立
ち上がった。今度はきっと、自分の家族を護るためだけに。
（なんか多いわね、私の周りにそういうの）
そう思うとエレナは自嘲気味に笑う。
（でもディルナがいなくなった今、本気のバードを止められるのはきっとエヴィン君だけ。それは
たぶん本人も気づいている。だから…）
「シーレン」
飲みかけのコーヒーカップを脇に置き、エレナが言う。
「もしエヴィン君が…エヴィン・ハランツがネオパルマに来たら、あなたは彼と戦える？」
「マスターからの指示があれば、私は拒否いたしません」
「そう…まあ、そうよね」
無機質な返事に苦笑いしてうなずくとエレナは残りのコーヒーを飲み干す。
（昔、あなたはシーレンのことを壁だと言ったわね…自分が前に進むために、乗り越えなくちゃい
けない壁だって…でも今はきっと、あなたが私にとっての壁…）
「…やるわよ、シーレン」
強い決意を瞳に込めて、エレナはそう言い切った。
バードもエレナも、エヴィンの存在を感じとっていた。前者は本能的に、後者は理論的に。そして
当のエヴィンがネオパルマに向けて出発したのはジャンの一日後だった。
出発前日の晩、エヴィンがリビングに行くとアーサーが一人、適当にチャンネルを回しながらテ
レビを見ていた。
「父さん」
テレビを消すと、アーサーは父の方を向く。その顔は明らかに緊張していた。エヴィンは、そんな
我が子をあえて笑う。
「縁起でもない顔するな。シェリーが行くときにはそんな顔しなかったろう」
言いながらエヴィンも席につく。
「いや、あのときはこれほど大事になるなんて思いもしなかったし、それに…」
「それに？」
「なんか、姉さんってどんな環境でも何とかするっていうか生き延びるっていうか逃げ切れるような、
そんなイメージがあって」
「ハハ…ずいぶん、高く買ってたんだな」
「しぶとさだけだよ」
照れ臭そうに頭を掻きながらアーサーは毒づく。
しかしそれから軽くためいきをつくと、アーサーは寂しそうな顔をした。
「けど、姉さんがネオパルマに行って次は父さん、僕は留守番ばっかりだ」
「まあ仕方ないさ」
エヴィンがそう言うと、アーサーは少しムッとした顔をした。けれどエヴィンは、気にせず自分の
言葉を続ける。
「アーサーくらい守りを任せられるのはいないからな。ちょっと融通がきかないところはあるけれど
真面目で実直、何より裏切らない」
「それ…ほめてるんだよね？」
「もちろん」
言うとエヴィンは席を立ち、アーサーの肩をポンと叩く。
「ユエリのことも含めて、しっかりな」
「相変わらず乗せるのが上手いね」
軽く笑い、しかし満更でもない顔でアーサーは言った。そして彼は、改めてエヴィンに一つ尋ねる。
「ところで父さん、“ガーディアンレイジ”って知ってる？」
「ガーディアン…レイジ？」
「前にディルナさんが言ったんだ。あのテオ・ウェンフィールドも体得できなかったウェンフィールド
流の奥義だって（第二部第十九話参照）。強くなりたければ、それを物にしてみせろって、どんな
技なのか本人も知らないのにそんなこと言ってた」
「ディルナさんがか…」
アーサーの問いにエヴィンは腕を組んだ。
「残念だけど、僕も知らない。ウェンフィールドは父さんも若いときに段取ったけど、それ以上特別
に何かやったわけじゃなかった。ただ…」
「ただ？」
エヴィンの言葉にアーサーが身を乗り出す。
「守護者の怒り…なんとなく、お前の生き方と道がつながっている気がする名前だな。ディルナさん
もきっと、同じことを考えたんだろう」
「それ…根拠あるの？」
「ない。けど、案外当たるぞ、こういうときの僕の勘」
不安げなアーサーを前に、エヴィンはニコと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ところでジニーは？」
冷蔵庫から冷えたお茶を取り出すと、思い出したかのようにエヴィンが聞く。
「さあ…そういえば夕食からずっと見てないな。って言っても部屋しかないと思うけど」
「そうだな。ジニーとも、ちょっと話してくるか」
「寝てるかもしれないけど？」
「いや、たぶん起きてるさ」
妙に自信に満ちた声でそう言うと、エヴィンはジニーの部屋に向かった。
「パパ…」
部屋を訪れたエヴィンを前にジニーは、少しバツの悪そうな顔をしていた。小ぶりな手の平は、弓
の弦の跡で真っ赤になっている。
「まだ、引けないみたいだな」
ベッドの下に慌てて隠そうとしたネイボウに目をやり、エヴィンは言った。
この弓が引けたら、ジニーも自分が思うように動いていい。その言葉とともにエヴィンがジニーに
ネイボウを渡してから数日が経ったが、どうやらまだ弦はビクともしていないらしい。
「パパが行っちゃう前に、できたところ見せようと思ってたのに…」
「そうか」
言ってエヴィンは、ジニーの頭を撫でた。
「どうして、僕が行く前にって思った？三日か四日で帰ってくるのに」
「…それは…」
そこから先、ジニーは何も言えなくなった。今エヴィンがいなくなるのが不安だったから、エヴィン
が戻ってこないんじゃないかと不安だったから、早くいいところを見せたかったから、思いつく理由
がありすぎたし、どれ一つ取っても、言いだしやすいものが無かった。
「なあジニー」
硬直したジニーにエヴィンは語りかけた。
「僕はジニーがネイボウを引けると信じている。けれど、引けずに終わることを願っている」
「パパ…？」
「二千年以上前に作られ、歴代のライアに受け継がれてきたネイの弓、それが力を振うのに必要な
物は…『想い』だ」
「想い…？」
急に答えを教えられたジニーだったが、それに対しても言葉をオウム返しに言うことしかできない。
「そう。たとえその身を盾としてでも大切な人を護りたい、大切な故郷を護りたい、そんな想いだ」
「………」
「ジニーは優しい子だ。そして心の芯にとても強いものを持っていることも、ちゃんと分かってる」
「…ホントに？」
「もちろんだ。だからもしも、ジニーの周りで大切な人達が傷つけば、きっとそのときジニーが抱く気
持ちにネイボウは応えてくれる。けど、そんな状況はイヤだろ？」
エヴィンの問いかけにジニーはコクリと頷く。でも、とジニーは唇をとんがらせた。
「じゃ、じゃあなんであんなこと言ってこれを渡してくれたの？」
「ジニーの気晴らしになればと思ってな」
「……気晴らし……」
目を丸くするジニーの背中を、エヴィンは笑いながらさする。
「悪かったな。けど、しっかりな、ジニー」
言い残すと、エヴィンは部屋を出た。
「準備は大丈夫なの？明日朝早いんでしょ？」
子供達との会話を終えたエヴィンが寝室に戻ると、待っていたのは呆れ顔のリビアだった。明日
の出発は朝の六時前で今はもう十二時近く。それなのにまだスーツケースにはシャツ一枚も入れ
ていない。
「いや、ちょっと、ジニーやアーサーと長話になっちゃってね。これから急いで…」
「そんなことだろうと思って、大体やっておいたわよ」
「そ、そりゃどうも…」
その一言で苦笑いをしていたエヴィンの表情にバツの悪さが加わった。引っ張り出しただけで空
っぽだったはずのスーツケースには着替えや薬、洗面用具、軽食、それにシェリーへのお土産用
の菓子類などが過不足なく詰め込まれている。
「まったく…日用品くらいしか入れてないけど、他は大丈夫？」
「ああ。あとはチケットとパスポート、それに…」
そこで言葉を止めて、エヴィンはがさごそと机の中を漁り始めた。リビアにはその顔が、ちょっと
焦っているように見える。
「…何が無いの？」
「いや、ちょっと。薄い緑色のＡ４封筒で…わりとというかかなり重要な命綱というか…えっと……」
「薄い緑色…肘で踏んでるそれのこと？」
「あ」
「ホントに…何なの？それ」
やれやれといった面持ちでリビアが聞く。
「古代遺物の持ちこみ許可証だよ。ウェンフィールド財団に頼んで、向こうの博物館から発行して
もらった。これがあれば、ネイソードを博物館の展示品だと偽装して持ちこめる」
「ネイソード…やっぱり、持って行くのね」
「うん…使わなければそれに越したことはないけど、難しいだろうね…いや、示威とか抑止って意味
を考えたら、むしろ積極的に使った方がいいのかもしれない」
「エヴィン…」
「なんかみんな、そんな顔するなあ」
リビアの不安げな表情に、エヴィンは困ったような顔で笑った。
それからエヴィンは、ゆったりと壁にもたれかかる。
「思い出すな、ダークファルスと戦ったときのこと。…もう三十年も前か」
「…三十年…もうそんなに経つのね…」
依然として不安げな顔でリビアは言う。
「あのとき、戦いの前に約束したんだったよな。もうリビアを悲しませるようなことはしないって」
「………」
「あれから今日まで、リビアを怒らせたり、呆れさせたり、がっかりさせたりしたことは何度もあった
けど、悲しませることはしなかった、少なくとも僕は、そう思ってる」
「ええ、それは同意するわ。怒ったり呆れたりしたことはたしかにあったけど」
「…そこはもうちょっと、否定してほしかったんだけどな。でも、悲しませないってのだけはこれからも
きちんと守る。それは約束するよ」
そこで言葉を止めると、エヴィンはリビアを見てニコと微笑んだ。
「信じてくださいよ、リビア先輩」
少年時代そのままの口調でエヴィンが言うと、リビアは思わず吹き出した。そしてリビアも、昔の口
調で言葉を返す。
「わかったわ、エヴィン君」
「ハッ…ハハハ…」
「フフフ…」
そして二人は、互いの顔を見てまた笑った。
だがそんな夜も明けた翌日、エヴィンはシャトルの機内放送でジャンが襲撃された事を知った。
（これは…）
そのニュースに、エヴィンは直感的に教団の存在を感じとっていた。そしてジャン本人だけでなく
大使館員の誰もが無傷だったという報道には、ディルナの存在を。
（ディルナさん…無事だといいが…）
祈るような気持ちで、エヴィンはシャトル内の２０時間を過ごした。
スペースポートに着いたエヴィンは、すぐにジャンに連絡を取った。そしてホテルに荷を置き、身
なりを整えるとすぐにタクシーでジャンが滞在しているホテルに向かう。
「どうぞ」
ボディチェックを受け、エヴィンはジャンの部屋に入った。部屋の中ではやはり、数名のボディガ
ードがエヴィンの一挙手一投足に目を光らせている。慣れない経験で違和感はあったが、我慢す
るしかない。
「すみませんエヴィンさん、これも規則でして」
「仕方ないですよ。あんな事件の後ですし」
エヴィンがそう言うと、二人の前に紅茶が運ばれてきた。香りのいいブレックファストティー。エヴィ
ンは勧められるままにそれを口に含んだ。しかしジャンは手をつけない。
「昨日…義父（ちち）を失いました…」
ジャンは静かにそう切り出した。その言葉を受け、エヴィンもカップを置く。
「…そう、ですか…やはりディルナさんが…」
「ええ。見た瞬間にあの人だと分かりました…遺体は今、鑑識に回されていますが、無数の刀傷
がありました。その中でも真正面から袈裟切りに斬られたのが致命傷だったそうです」
（バードだな…シェリー、よく無事でいられたな…）
ジャンの話を聞き、エヴィンは内心、不謹慎だと思いながらも少しだけ胸を撫で下ろす。ディルナ
を斬殺した敵を相手に、よくぞ病院で一泊程度の怪我で済んだものだと。
「このこと…エリーさんには？」
「まだ、伝えていません…なんて伝えようか、なんて言えばいいのか…ハハ、情けないですよね。政
治家は言葉が命なのに」
自嘲気味にそう言うとジャンは頭を掻いた。それに対してもエヴィンは何も言葉をかけない。それ
どころか、強い後悔の表情さえ浮かんでいた。
「エヴィンさん、もしあのときのことを気にしているのでしたら、そう思わないでください。僕だって、同
じ立場ならそうしていました」
沈痛な面持ちのエヴィンにジャンは言った。
エヴィンもエリーをディルナに会わせられればとはずっと思っていた。そしてアーサーやユエリが会
った老人がディルナだということも、話からほとんど確信していた。
だがそれでも、本人に会って間違いなくディルナだと確認するまで、それをエリーに伝える勇気が
無かった。もしもそれが別人だったら、どんなにエリーを失望させてしまうだろうかと。
けれどそんなエヴィンがディルナに会い、エリーに連絡し、そして彼女が病院に駆け付けたとき、デ
ィルナはすでに病室を抜け出してしまっていた。そして、二人が再び会う可能性は永遠に失われてし
まったのだった。
「エヴィンさん…」
ジャンがそう言っても表情を変えないエヴィンに対し、ジャンは“ところで”と話題を変えた。
「あの人は現場に血文字を残していました」
「血文字…ダイイングメッセージということですか…？そういうのは普通信用できないって聞きます
けど…」
「ええ。けれど今回は、指についていた血、そして地面に指を強く擦りつけ、文字を書いていたため
残った皮膚のかすれなどから本人が残したものだと鑑識も判断したそうです」
「そうですか…それで、現場にはなんて…」
「これはまだ公表されていないので内密にお願いしますが…ＹＵＥ、と書かれていたそうです。そこか
ら先も何かを書き残そうとしていたようですが…」
「ＹＵＥ…」
「きっと義父が、最後の力を振り絞り残してくれた犯人の手がかりでしょう…無駄にはできません」
「っ…！」
口に何を含んでいるわけでもないのに、その一言でエヴィンは強烈に咽た。
「え…エヴィンさん？」
「い、いや、それは犯人とは関係ない…その話を聞いて、色んな意味で本当によかった…」
「何か知っているんですか？」
ジャンの問いかけにエヴィンはコクリと頷いた。そしてこれまで話をしておかなかったことを詫びた
上で、エヴィンはユエリのことを話す。
「………」
今度は、ジャンが切り出す言葉を失った。震える手でティーカップを持ち、かなり冷めた紅茶を一口
飲むとなんとか落ち着きを取り戻す。
「平行世界…いや、いくらなんでもそれはありえないでしょう」
「僕もそう思うんだけど」
ため息をつくとエヴィンもまた、紅茶を一口飲む。
「ただシェリーやアーサーにも言われたんだ。『平行世界から来た』はたしかに普通じゃありえない事
だけど、それならありえないことは一つしか起きていない。それに対し『僕が浮気』していて、『その相
手がエリーさん』で、『子供まで作って』いて、『それを１６年も隠して』いただとありえないことが４つも
起きる必要がある。それに比べればずっと現実的だってね」
「フッ…ハハハハハ…たしかに、お子さん達の言う通りかもしれない」
エヴィンの言葉にジャンは声を出して笑った。
「けれど、最期に思ったのがエリーじゃなくてそのユエリって子の方だったっていうのは、個人的に少
し悔しいかな。義父にとってエリーはもう本当に、どうでもよかったのでしょうか…」
「いや…それは違うと思いますよ」
そのことだけはエヴィンは、自信をもって答えられた。
「ディルナさんはきっと、ユエリのことが心残りだったんでしょう。素性について話を聞いたわけではな
かったけれど、色々なものを背負い込んでいるだろうことは感じていただろうから。けれどエリーさん
は、あなたがいれば何も心配いらない、そう思っていたんだと思います」
「そう…だといいですね」
寂しげに言うと、ジャンは残っていた紅茶を飲みほした。
「それでエヴィンさん…あなたはどうするんです？」
「………」
ジャンの問いかけにエヴィンは答えなかった。まさか公人相手に、しかもボディガードもいる前で、私
闘をするとは言えない。バードの力を考えたら、おいそれと彼の名前を出すのも犠牲者を増やすだけ
になる。だからエヴィンは、力なく微笑んだ。
「とりあえず、娘の顔でも見てきますよ。ただその前に…ディルナさんのこと、ユエリに伝えないと」
そう言うとエヴィンは、ジャンに一礼して席を立った。
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