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「さてと、それじゃあ続けましょうか」
チーフをポケットに納め、姿勢を整え直すと、シェリーは再びアルケミストに向かって
行った。
「………」
向かってくるシェリーを前に、アルケミストはその場から動かなかった。ただゆっくりと
腕を上げ、そしてその指をパチンと鳴らす。
「ギィイイイイイ！！！」
「！？」
濃紺色をした鳥が耳障りな鳴き声をあげると同時に、シェリーの全身から力が抜けた。
「このっ…！」
シェリーはその場でつまずきそうになるが何とか踏みとどまる。
だが次の瞬間、アルケミストは着衣からネクタイを抜き取り、それを投げつけていた。
宙を舞うネクタイは意思を持っているかのようにシェリーに向かい一直線に飛んだ。
そして飛ぶうちにその長さは三倍ほどにも伸び、シェリーの全身を絡め取る。
「くっ…」
「無駄ですよお姉さん」
受け身も取れず肩から倒れたシェリーをアルケミストは哀れみの目で見下ろす。
「サンダークラッカーのバインドボイス、そしてワイヤーモードの最高傑作グレイプニル。
グレイプニルの強度は工事現場で鉄骨を持ち上げるワイヤー以上、対エヴィン・ハラン
ツを想定した僕の切り札の一つです」
「パパとのって…最初っから戦う気満々じゃない！」
怒鳴り、シェリーは縛めを解こうと身をよじらせた。
「そりゃまあ、こっちだって準備くらいはしますよ。ともかく…僕の勝ちですね」
言ってアルケミストはポケットからハンカチを取り出し、それをじたばたするシェリーの
顔にそっと近づけた。
（…これは…）
「分かってると思いますけど睡眠剤です。効果は数時間、副作用や後遺症はないから安
心してください」
アルケミストは微笑み、諭すような口調でそう言った。そして彼は、シェリーの握り拳か
ら血が滲み出ていることに気付く。
「爪を手の平に刺してるんですね。でも、そんなので防げるほどは…」
そう言う間もシェリーの両目はどんどん閉じていった。瞳には涙が浮かんでいる。そして
シェリーはもう何も喋らない。
「おやすみなさい、お姉さん」
アルケミストがそう言うと同時に、シェリーの瞳は完全に閉じた。
「これで…これでいいんだ…」
グレイプニルを回収するとアルケミストは腰を上げ、ネクタイの形に戻ったそれを慣れた
手つきで締め直した。そしてゆっくり、寂しげに歩き出す。だが…
「ゲイルっ！」
「！？」
エヴィンの元へと向かうその一歩目を踏み出した瞬間、アルケミストは口から心臓が飛
び出しそうな思いがした。右を向くと、自分の横から上空へと飛び去ろうとしていたサンダ
ークラッカーがシェリーの一撃で撃墜されている。
「んなっ…」
アルケミストは驚きの表情で上空のシェリーを見上げた。シェリーはそんな相手に視
線をやると少し得意げな顔で空中で向きを変え、少し距離を取った場所に着地する。
「どうして、さっきので…！」
言いかけたところでアルケミストはシェリーの口元が血で真っ赤になっていることに気
付いた。
「…まさか…舌を噛み切って…」
「ええ。爪だけじゃ耐えられない眠気だったから」
言ってシェリーは、ポケットからモノメイトを一つ取り出し口に含み、口元を拭った。その
あまりに平然とした様子に、アルケミストは思わず嘆息する。
「えっと…大丈夫ですか？」
「とりあえずね。ちぎれるかと思ったけど」
「まったく…まんまと騙されましたよ。でもまだこれからです…スカイワープ！」
「……グギィ……」
だがアルケミストの呼び声にスカイワープは応えることができなかった。辛うじてフラフ
ラと飛んでいたかと思うと、まるで殺虫剤の煙にやられた蚊のようにゆっくりと地面に落
ちる。
「え…？」
「少し入りが浅かったから不安だったけど、ちゃんと効いてたみたいね」
「…いつの間に…」
「青いのを叩いたついでにね。安心して、峰打ちだから」
「体術に峰打ちも何も無いと思うんですけど」
「ニュアンスの問題よニュアンスの」
呆れるアルケミストの顔を見てシェリーは悪戯っぽく笑う。そして人差し指で軽く相手を
挑発した。
「続けましょうよ。言っとくけど、私強いよ？」
「分かってますよ」
そんなシェリーを見るアルケミストの顔に険しさが増す。
「あなたはダブルフェイスを倒し、バードを退け、キース・ドーシュを自滅に追い込んだ…
おそらく僕が相手をしてきた人達の中では一番強い」
「ええ、それも“ダントツに”ね。行くよ…アル」
そう言ってシェリーは自分のハンカチをポケットから取り出し、拳に巻き、即席のナック
ルガードに仕立て上げた。
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「…どうやら本格的にはじまったみたいですね」
遠くから来る戦いの気配を感じ取りエヴィンが言う。
「助けに行かなくていいの？」
「行こうとしたのを引きとめたのはエレナさんじゃないですか」
「それはそうだけど…」
そう言いかけ、エレナは少し言葉を選んだ。
「戦いには加勢しない、危害を加えた相手を前に怒りもせずに平然、ずいぶん長女の方
には冷たいのね。末っ子をさらったキースに対しては鬼のようだったって聞いたけど」
「そんなことないですよ」
エレナの言葉に、エヴィンは少しバツが悪そうに苦笑した。
「エレナさんはシェリーに教団には関わるな、すぐに引き返せと言ってくれたんでしょう？
ジニーをさらって手駒として使おうとしたキースとは状況が違いすぎます。それに…」
「それに？」
「完全にタイミングを逃しました。今更一騎打ちに割って入ったら娘に怒られます。あの
アルケミストという少年が、シェリーとだいぶ仲が良さそうなのは気になりますが」
「仲が良さそう…あなたにもそう見えたんだ」
その言葉にエレナは思わず微笑んだ。
「本人は否定しているけれど、シェリー・ハランツが来てからあの子は確実に変わったわ。
表情が豊かになって、部下への扱いにも優しさが出てきた。それが教団のＳ級として有
益なのかと聞かれたら、デメリットの方が大きいと思うけど」
そう語るエレナの顔はどこか嬉しそうにエヴィンには見えた。
「幹部随一の穏健派っていうのは嘘じゃないみたいですね」
「………」
エヴィンの言葉にエレナは照れ臭そうに横を向いた。
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「うぉおおおおっ！！」
シェリーのあらん限りの力を振り絞った、拳林蹴雨がアルケミストを襲った。
無論、それは防御を固めたアルケミストには届かない。戦車の砲撃にも耐えるという彼
の防御壁を打ち破るほどの威力はもちろんない。けれどそれでも、生身の人間相手に心
理的なプレッシャーを与えることくらいはできる、シェリーはそう読んだ。
（これがシェリー・ハランツの…教団のＳ級Ａ級を相手に生き延びて来た人間の拳…）
防御の上からも振動は伝わってくる。そしてその振動と迫力は、アルケミストにとっては
紛れもなく初体験の物だった。
（実戦経験の少ない相手…手数で押せば隙は生まれる！）
防御の上から、シェリーはさらに攻撃を重ねた。その迫力に圧され、アルケミストは一歩
退く。
「アル…あんた私を一番強い相手って言ったわよね」
拳に拳を、蹴りに蹴りを重ねながら、攻撃の手は一切緩めずシェリーは語りかける。
「私は何度も！自分より強い相手と戦って来たのよ！！」
「！！」
「武神っ！」
「そんなのっ！」
「！？」
シェリーの放った武神の咆哮、それをアルケミストは踏み込んで受けた。絶妙なタイミン
グで腕が伸び切る前に抑えられ、技の威力も半減する。
「よく言いますね…本部の牢屋で震えて泣いてたのはどこの誰でしたっけ？」
「う…」
「僕の名前を何度も呼んで泣きじゃくって、そんな人が上から目線で語ったって…」
「うるさぁぃっ！」
相手の言葉を遮り、シェリーは一直線に突撃した。それに対しアルケミストは無防備の
棒立ちで、そこから動くこともしない。
だが、そんな相手を前に、シェリーの動きは直前でピタと止まった。
「読んでましたか」
「アルの方こそ」
言って二人はニヤリと笑った。
互いに罠を仕掛けていた。挑発し、深追いを誘ったアルケミストと、それに乗っかるフリ
をしたシェリー、互いにその動きは嘘で、そして互いに直前でそれを見抜いた。
「この僕を…Ｓ級をあまり甘くみないでください」
余裕の表情でアルケミストは言う。
「たしかに僕はあなたほど実戦経験を積んでいない。戦闘要員じゃないし、これまで左程
強い相手と戦ったこともない。それでも煮ても焼いても喰えない人達の中で生きてきた。
退く時と進む時の区別くらいはつくんです。虚仮脅しの技なんて、いくら撃っても無駄です」
「みたいね…ちょっと甘く見てた」
「大丈夫ですよ。すぐに甘く“見る”ことなんて出来なくなりますから」
その言葉とともにアルケミストの姿はシェリーの前からスッと消えた。
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「戦い、どうなってますかね。空気の流れを読むかぎり、あまり大きな動きはまだないみた
いですけど」
「すごいわね…そんなことまで分かるなんて」
「なんとなくですけどね。距離が距離だから当たっているか外れているか、自信がない所
は正直あります。けど…」
エヴィンは依然として落ち着き払った表情でエレナのことを見た。
「すぐ隣にいるエレナさんとシーレンさんが、ここにある種の決意を持ってきているという
ことくらいは分かります」
「へえ…」
そう言われ、エレナは少しシニカルに笑った。
「やっぱり変わったわね。気づいていながら黙っているなんて」
「そういうつもりもないんですけどね。ただ会ったらなんだか懐かしくて、少し会話を楽しみ
たかった」
「そうね…私も懐かしかった」
その言葉にエレナは深いため息をついた。
それからエレナが次の言葉を言うのに、少し時間がかかった。けれどエヴィンは、静か
にそれを待つ。
「けど、私はＳ級としての責務があるわ。あなたがシェリーを連れてこのままネオアリサに
帰ると言わない限り私は…いえ、私達はあなたと戦わなくてはならない」
「…それなら、仕方ないですね」
エヴィンは右腕を真横に、水平に突き出した。瞬間、その腕のもとにネイソードが飛来し、
彼の手中に収まる。
「それがお二人の…僕なんかよりずっと多くの物事を見て来たエレナさんとシーレンさんの
考えなら、僕はそれを受け入れ、ただ全力で相手をさせていただくだけです。バード以外の
Ｓ級と戦うのは若干予定外でしたが…」
「本当に、迷いのない顔してるわね」
「納得した上での戦いですから。納得してるから、二人と戦う」
そう言い放つエヴィンの表情には、一点の曇りもなかった。
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「これ…さっきも使ってた…」
（ご名答）
焦り、キョロキョロと首を左右に振るシェリーを見てアルケミストはほくそ笑む。
（グリーンハーミット、姿を消し、気配を消し、さらに靴のグラブトを逆に出力することで
浮遊力を持たせ足音も消す…感知は不可能）
それでもアルケミストは物音をたてないように細心の注意を払い、シェリーとの間合い
を詰める。だがその足も、途中で止まった。
（………？）
シェリーは両目を閉じていた。拳は構えたまま腰を少し低く落とし、全身の集中力を高
めている。
（この構え…心眼？）
シェリーを見てアルケミストはすぐにそう思った。けれど同時に、彼の頭はそれを否定
する。
（ハッタリに決まってる。そんなの簡単に使えるようになるワケが…）
「ハッタリに決まってる…そう思ってるでしょう」
そんな相手の心を見透かしたかのようにシェリーが言う。
「残念だったわね。ちゃんと右の方にいるって分かってるんだから」
自信に満ちたシェリーの言葉、だがアルケミストが実際にいるのは左の方だった。アル
ケミストは思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「なんてね！」
「！？」
だが次の瞬間、シェリーが飛び出したのは左の方だった。アルケミストは完全に虚を
突かれ、シェリーは相手との距離を瞬時に詰める。
「そこっ！」
「くっ！」
顔面めがけて飛んできたシェリーの腕をアルケミストは咄嗟にガードし、そして左に飛
び退いた。
しかしその動きに、シェリーも躊躇なく追従する。アルケミストがさらに後ろに下がって
も、横によけてもついてきた。
（まさか…本当に？）
「悪いわね。伊達に天才って呼ばれてないの！」
アルケミストの歩調にあわせ、シェリーは横殴りに左拳を払った。アルケミストはそれを
防ぐ。
防がれると今度は即座に右の拳を放った。だがその狙いはアルの顔ではなく、上着の
フラワーホールにつけられた緑色のピンバッジだった。
（しまった…）
狙いを察したアルケミストはすぐにそれを守りにかかった。
だが間に合わなかった。シェリーがバッジをつかみ、引き抜くとアルケミストの姿も露に
なる。
「まあ、全身に迷彩効果を出せるとしたらそこらへんでしょうね」
むしり取ったバッジを手の中で弄びながらシェリーは言う。
「気付いてましたか…恐れ入りましたよ。まさか心眼まで極めて…って」
そう言いかけるアルケミストに対し、シェリーはニヤリと笑って腕を引く。すると、アルケ
ミストの袖口が少し動いた。
「えっと…もしかして…」
「古典的だけど有効な手段パート２ってトコね。最初の連撃のとき、糸つけといた」
「じゃあ、最初に目を閉じたりしてたのは…」
「もちろんハッタリ。こういうとき、雰囲気作りって大事でしょ？」
「………」
「どしたの？アル」
笑いを噛み殺す相手を覗き見てシェリーが言う。
「やっぱり…やっぱり面白い人ですね。お姉さんと、シェリー・ハランツと戦うのがこんなに
楽しいって分かっていたら、もっと早くから挑んでおくんだった。なんか損した気分ですよ」
「そうね。たまにはこういう勝負も悪くないかも。けど」
言ってシェリーはまた構え直す。
「悪いけどそろそろ決着つけさせてもらうわ。もう結構時間が経ってる。ゴーツやジェニフ
ァーだって、そろそろ妙だと気付く頃でしょう」
「それもそうですね。でも、それなら勿体ないから仕切り直しでも僕は構いませんけど」
「それは、ご免被りたいわね」
あっさりとシェリーは言う。
「なんでです？」
「だってせっかくのチャンスだもの。アルと会ってからずっと抱えてた不平不満を、キレイ
さっぱり吹き飛ばすための」
「それ…僕が教団にいることのことを言ってるんですか？」
「ええ。それが私がアルと戦う理由。納得してないから、あなたと戦う」
そう言い放つシェリーの表情には、一点の曇りもなかった。
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