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「う…」
意識を失ってからどれくらい経ったのだろうか。アルケミストは自分が、見覚えのない部
屋にいることに気付いた。
「僕は…」
まだはっきりとしない意識の中、アルケミストはまず自分の身の周りを確認した。拘束は
されていないがベルトは抜き取られている。足は裸足でシャツやズボンも没収され、彼が
着たこともない、安物のシャツとジャージに替えられていた。
「まあ、そうだろうな」
自分の置かれている状況にアルケミストは別に驚きも慌てもしなかった。自分は負けた。
その結果から当然予想される帰結だ。こんなことで慌てるほど、可愛げのある性格はして
いない。
「狭い部屋だな」
次に辺りを軽く見回しアルケミストは言った。狭いだけでなく、コンクリート製の壁には壁
紙さえ貼られていない。寝かされていたベッドも、教団の収容所で使うものと大差ない。つ
いでに言うと、彼の装備品は全て、真空パックされて安物の机の上に置かれていた。
「…どこかの収容所か…それにしては窓があるけど…」
「私の部屋よ」
「お姉さん…」
背後から聞こえてきた、聞き覚えのなる不機嫌な声にアルケミストは思わず振り返る。
「何が収容所よっての。まったくこれだからお坊ちゃん育ちは」
「あら、そういうあなたも、最初は結構文句言ってなかった？防音が悪くて寝付けないとか、
シャワーばかりじゃなくてたまにはバスタブにつかりたいとか」
アルケミストの前にいたのはシェリーだけではなかった。彼女の隣に座っていたもう一人
の女性が、そう言ってシェリーに茶々を入れる。
「う…」
「さすがは私立大学教授のご令嬢、なんのかんのでお嬢様だなって思ってたわよ」
「さ…最初だけでしょそれ！もう慣れたっての！」
「そっちはたしか…ウェンフィールドのボディガード…」
「ジェニファー・シウムよ。きちんと自己紹介するのは初めてかしら？」
「そうですね。シャワーは確保できたんですか？」
「いいえ」
アルケミストの質問にジェニファーは笑って首を横に振る。
「いくらなんでも、あれでホントにそのまま帰ったら護衛失格よ。気配は完全に消して影で
見守ってた。隠行の術は得意なの。あ、天地神明に誓って、手出しはしてないけどね」
「そうですか…」
言ってアルケミストはうな垂れる。
「手出ししてた方がまだマシだったな。くそ、あんな所で、足を滑らすなんて…」
「ねえアル、これ何か分かる？」
つぶやくアルケミストに、シェリーは一枚のハンカチを見せる。
「分かるも何も僕のハンカチじゃないですか。けどなんでそんな土まみれに…ってまさか！」
目を見開くアル、対照的にこれ以上ないくらいにドヤ顔のシェリー、そして二人の様を見て
笑いを噛み殺すジェニファー。
「そういうこと。クルウェル潰したあと、着地で派手に砂埃巻き上げたのは、これをセットした
のを気付かれないため」
「………」
「アンタから隙を作り出して、顎先へのパンチ一閃、脳を揺らして無傷で気絶、そのために
残された、ほとんど苦し紛れの最後の手段。バテて動けなかったのは演技じゃないわ。ア
ルがあともう一つでも飛び道具を持っていたら避けられなかった」
「ちょっと待ってくださいよ。無傷で？僕を？」
「ええ、ずっとそれを狙ってた」
慌てるアルケミストに対し、平然とシェリーは答えた。
けれど彼はそれでも収まらず、早口で言葉を続ける。
「だ…だってあのとき言ったじゃないか！僕の無傷と自分の勝ち、どっちが大切か天秤に
かけるまでもないって！それなのに！！」
「ええ、何度でも言えるわ。どっちが大切か、天秤にかけるまでもない」
「な…なら！」
「だってどっちも等価値だもん。ミリグラム単位までもね」
「え゛………」
アルケミストの顔から、一気に表情が抜ける。
「まあもっとも、ただ相手の無傷を狙うには力の差が無さすぎたから、必要な分のダメージ
は私が引きうけることにした。錬金術で言う、等価交換ってヤツ？」
「等価…交換…」
シェリーの言葉を茫然と、オウム返しにアルケミストはつぶやく。
やがて彼は、左手を顔に当て、クッククックと笑いだした。
「完敗だ…完敗ですよ。等価交換なんで言葉まで出されたら、負けを認めるしかない」
「えっとさ…負けを認めるのはいいけどダブルフェイスみたいに頭のネジ飛ばさないでよ？」
「飛ばしませんよ。ていうかあんなのと一緒にしないでください」
「してないわよ、一度だって、あんたをバードやダブルフェイスと一緒にしたことはない。だ
からこそ、ここまで来れた」
「…ホント、あれこれ言葉を返してきますね」
呆れ気味にアルケミストは言う。そして今度はその視線を、ジェニファーに向けた。
「それで、あとどれくらい僕はこうしていられるんですか？」
（？こうして？）
シェリーは怪訝な顔をするが、ジェニファーには意味が伝わっているようだった。
「あと十分で財団の車が来るわ。表向きは普通の乗用車だけど、実際には護送車なみに
頑丈なのが」
「ちょっとジェニファー、どういうこと？」
「それが分からないくらい鈍くもないでしょ？この子は連行する。聞きたい事は山ほどある
し、身に着けていたものは抜群の研究素材になる。その手段がどうなるかに関しては、彼
次第だけどね」
「そんな脅かさないでくださいよ。身ぐるみ剥がれた僕は、懸垂もできないただの子供に
すぎないんですから」
「フィジカルはね。けど、それ以外はどうかしら？」
「ハハハ…」
「フフフ…」
そう言ってジェニファーとアルケミストは互いに笑う。だがその目は全く笑っていない。
（………）
互いが向け合う、自分には決して向けない表情を見ながら、シェリーは強烈な不安に
襲われた。このまま話を進ませてはならない、そう思って必死に話に割って入る。
「あ、あのさあアル」
「なんです？」
シェリーの声に、アルケミストは少しだけ表情を和らげる。
「あんたさっき、負けを認めたわよね」
「ええ」
「じゃあ、勝負前の約束、守ってもらうわよ。教団がアルにとって全てだ、そう言っていた
意味、ちゃんと教えて」
「………分かりましたよ」
しばらく考え、そして諦めに似た感じでアルケミストは言う。
「ただ、その約束をしたのはあくまでもお姉さんに対してだけだから、ウェンフィールドの
エージェントさんには席をはずしてもらいたいんですが」
「分かったわ」
シェリーが何か言うまでもなくジェニファーが言う。
「もっとも、あとでゆっくりシェリーから聞き出すつもりだけど」
「構いませんよ。それは約束の範囲外ですから」
アルケミストがそう言うと、ジェニファーは静かに部屋を出る。それから少し間をおいて
シェリーは部屋の外を見まわしたが、本当にジェニファーの姿は見えなかった。
「………」
「………」
ジェニファーが去り、広くない部屋の中でシェリーとアルケミストは二人きりになった。
準備が整い静かになると、逆に話を切り出しづらくなる。
「ところで話をはじめる前に一つだけ確認しておきたいんですが」
そう先に言ったのはアルケミストの方だった。だがそんな彼の声も、少し上ずっている。
「僕を着替えさせたのって、その…」
「プッ…」
その質問に、シェリーは思わず吹き出し、緊張が解けた。
「ジェニファーよ。私がシャワー待ちしてる間にね」
「そっか…」
シェリーの回答に、アルケミストは少し安心したようだった。その顔はもう、シェリーに
とっての『いつものアル』に戻っている。
「そんじゃそろそろ始めさせてもらうけど、アルってやっぱり生まれも育ちも教団なの？」
疑問形で聞きながら、しかしシェリーはかなり確信があった。アルが普通に学校に通い
授業を受ける姿、合唱コンクールや遠足に参加する姿、昼休みにクラスメートと談笑しな
がらお弁当なり給食なりを食べている姿なんてどう頑張っても想像できないし、無理矢理
想像してもギャグにしかならない。
だが、そんなシェリーの質問にアルケミストはあっさり首を横に振った。
「…違うの？」
「違うって言うか、分からないんですよ。僕、昔の記憶がないから」
言葉の内容には不自然なほどあっさりした物言いで、アルケミストはそう切り出した。
「昔の記憶がない？」
訝しげにシェリーが言う。その表情には、少しだけ同情が浮かぶ。
「ええ、覚えているのはバルド・セプトっていう名前だけ。あ、別に気にしてなんてないです
よ？消されたにせよ自分の意思で蓋をしてるにせよ、そんな記憶どうせロクな物じゃない
ですから。だから７年前、パペットマスターが僕のことを見ている顔、それが最初の記憶
です」
「パペットマスター…」
その名前をシェリーはずいぶん久しぶりに聞いた気がした。自分に最初にコンタクトを取
ってきたＳ級幹部の名前だ。
今彼がどこで何をしているのか、気にならないわけではなかった。けれど今は時間が惜
しい。シェリーは、アルケミストの話を優先させることにした。
「パペットマスターのところにいたのはちょうど三年間でしたね。そこで彼の手伝いをしなが
ら、毎日ほとんど二人きりで…１０歳のとき、初めてボイスに会いました」
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「この子供が、そうだというのか？」
薄汚れたドレッドヘアの男に対し、男はそう問うた。
男の年齢は六十前後、ドレッドヘアの男とそう変わらない、初老の男だ。ただその佇まい
はドレッドヘアの男と大きく異なる。年の割にはしっかりとした骨格を持ち、豊かな銀髪は
オールバックに整えられている。スーツをしっかりと着こなし、スモークの薄いサングラスを
かけている、そんな男性だった。
「…おそらく」
皺枯れた声でボソボソとドレッドヘアの男、パペットマスターはそう答えた。
「そうか」
言って男は、少年に視線を向ける。
「名前は？」
「…バルド…セプト…」
バルドは少しだけ視線を上げて答えた。その瞳に生気はなく、声にも少年らしいハリは
ない。
「………」
そんなバルドを、男はしばらく無言で見下ろしていた。パペットマスターは、いつの間にか
そこからいなくなっている。
「バルド」
少年の名前をもう一度呼ぶと、男は自分のつけていたベルトを抜き取る。
そしてポケットから短刀を取りだすと、それで指先を少し切って、血をバックルに塗る。
「締めてみろ」
ベルトを受け取ると、バルドは言われるがままにそれを締めた。締めたのを見届けると、
今度はバルドに手にした短刀を渡す。
「私と同じことを」
「………」
機械的なまでに同じ動きで、バルドは手にした短刀で自分の左手、人差し指を傷つけた。
その顔に、刃物を持った気遅れも高揚は見られない。傷の深さも、ボイスのしたのと寸分
違わず同じだった。そしてそのまま、指先から流れ落ちる鮮血を、ベルトのバックルに塗り
つける。
バチイッ！
その瞬間、強烈な破裂音が狭い室内に響き渡った。バックルからは血の色をしたフィール
ドが不安定な形で噴出し、バルドを獲り込もうとする。バルドはその中でも無表情を貫こうと
したが、それもわずかな間のことだった。
「う…うああああっ！！！」
「バルド！」
一声とともに男はフィールドの中に腕を突っ込み、バックルに塗られた血を拭い落した。
フィールドは消え、バルドはガクリと膝をつく。そしてそのまま倒れそうなバルドを、男は急
ぎ抱き留めた。その右腕は、ズタズタに傷ついていた。
「パペットマスター」
騒ぎが収まり、そこに戻ってきた相手に目を向け男は言う。
「バルドを、鍛えろ」
「…仰せのままに」
「バルド」
腕を離して立ち上がり、男は再びバルドを見据えた。
「私は深遠の探求者の統率者、ボイスである」
静かな、しかし威厳ある声でボイスは言う。
「私の側まで、上がって来い」
「はい」
バルドは今度は、はっきりとボイスの目を見て答える。その顔を見て、ボイスは軽く頷いた。
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「それからでしたね。パペットマスターが僕に、単なる雑用じゃなくてやたらと色々なことを詰め
込みだしたのは。それが半年、その中で錬金術が一番向いてるってことが分かって、パペット
マスターに手ほどきを受けたのが半年、そこから独学で二年やって、一年前にボイスに認めら
れて、アルケミストの名前を貰って…」
懐かしそうにそう語るアルケミスト、だが彼が自分の言葉を言い終わるよりも前に、シェリー
は彼の両肩をがっしりと掴んでいた。
「お姉さん？」
「アル…」
シェリーの瞳には、涙がたまっていた。その涙が頬を伝って流れないよう、シェリーは必死に
踏み止まっている。
「な、なんです…？」
「アル！！」
限界だった。その言葉を合図に、シェリーの頬を滂沱の涙が伝う。シェリーはそれを拭いも
せず、真っ直ぐに扉を指さした。
「行きなさい、あなたのおと………お友達の所へ！！」
「お友達…ボイスのことですか？」
「他に何があるのよ！」
泣きながらシェリーは叫ぶ。だがそれと同時に、ジェニファーが部屋に飛び込んできた。
「シェリー！」
「ジェニファー！！」
アルを止めようとするジェニファー、その手をシェリーは必死に抑える。
「早く！」
ジェニファーを制しながらシェリーは叫んだ。アルケミストはそんなシェリーの言葉に一瞬の
躊躇を見せたが、真空パックされた彼の装備品一式を手に取ると、一直線に扉の外へと駆
け出して行った。
「シェリー」
アルケミストの足音が消えると、ジェニファーも追撃を諦めた。そして自分の両手を掴んで
離さないシェリーに声をかける。そしてそれに対するシェリーの声は、これまで聞いてきたど
の言葉よりも弱々しかった。
「私さ…あの子のこと、すごくアンバランスだって思ってた…大人びてるとこ、子供っぽいとこ、
冷たいとこ、優しいとこ…すごくアンバランスだって…でも、それだけじゃなかった…」
「シェリー…」
「私なんかより全然頭いいのに、あんな分かりやすいヒントがあるのに、本気で気付いていな
いのよ…ボイスが自分の何なのか、どうして自分が、あんだけ好き放題やって見過ごされて
来たのか…あんな、分かり切ってることなのにさ…」
絞り出すようにそう言うと、シェリーはジェニファーの胸に顔を埋めた。
「う…うくっ…えぐっ…う…うわあああああっ！！！」
「なんとなく、こうなる気はしてたけどね…」
「無理だよ…無理だった…私、信じてた…あの子が教団にいるのは間違いだって、引き離さ
なきゃいけないって、けど…けどっ…！」
シェリーはそれ以上、言葉を続けることができなかった。何を言おうとしても言葉にならず、
ただ咽び泣くことしかできない。
「やっぱり、お嬢様ねえ」
泣きじゃくるシェリーを優しく抱きしめると、ジェニファーは頭を撫でてそう言った。
※フロイライン：ドイツ語でお嬢さんの意（未婚の女性に対する敬称）
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